カテゴリー「経済・政治・国際」の94件の記事

2009年10月26日

太った。経済学。MT。

いろんなことをしているが、地に足がついていないことを反省する日々。

いろんなものにゆず胡椒をつけたくなる秋から冬への日々。

この1ヶ月で2キロ近く太った。自分のベストだと思っていた体重から、最大4キロ以上落ちていたので、なんとか戻したかったのだが、なかなか戻らなかった。それがここへきて、急な増加。ひとえに精神的なものが大きいと思う。気の持ちようを変えてからストレスがかなり減った。

ジェフリー・サックス著『地球全体を幸福にする経済学』(早川書房)を読む。「みんな協力したら、人口問題も気候変動も水問題も貧困も、絶対に解決できる」というメッセージを、データや過去の実績を通して訴えている。

私たち人間は、見えない力に動かされる歴史のこまにすぎないとはいえ、同時に、歴史を動かすこともできる存在だ。世界が共有の目標のもとに結集するか、それとも戦争と相互不信に陥るかを決めるのは、私たち自身の意志である。成功へのチャンスは、私たち一人ひとりが、社会のそれぞれの立場で、どれだけ変化を求める積極的な力になれるかにかかっている。とどのつまり、ジョン・ケネディがいったように、平和とは魔法の杖の一振りで得られるものではなく、「多くの行為の積み重ね」であり、一つのプロセスなのだ。(中略)エネルギーと勇気をもって、断固として「ノー」に抵抗しよう。最後の「イエス」を勝ち取る日まで。(p. 421)

いいですね、こういうの。冷めたことしか言わない学者が多いなかで、こんな熱いこと言えるのは、主義の違いを超えて愛すべきスカラーだと思う。

ブッシュ政権への痛烈な批判も随所に盛り込まれている。「テロとの戦い」と言いながら、長期的にそれを助長するような政策のミスばかりしてきた、と。

そういえば、ブクログは何も更新していないなあ。そのうち、ブログを全部ひとまとめにして、自分のポータルを作って管理・発信しようと思っているが、来月出る予定のMovable Type 5 が使い勝手が良さそうなので、それまで待つつもり。昔、MT3でブログを作ったこともあったが、当時と比べたら、かなり機能はレベルアップして、使いやすそうなので。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 1日

今回の総選挙を振り返って

総選挙の開票速報以上に面白いテレビ番組はないと常々思うが、今回はいやましてワクワクした。

前から言うように、自民党がいいとか民主党がいいとかではなく、硬直した政策決定のシステムを変革するには、政権交代しかないのは明らかだ。それが初めて現実となり、昨晩は「これでやっと戦後が終わる」という感慨にふけっていた。

2001年の段階で、すでに自民党はこうなる運命にあったと思う。それが、小泉さんが総理総裁になったことで延びてしまっただけのことだし、また多くの自民党議員は今まで公明党・創価学会によってなんとか救われてきただけで、実質的に党は何年も前から滅びていた。

地元選出の自民党議員(今回もかろうじて復活当選した)を見ても思う、「もうちょっとマシな人材はいないのか」と。有権者の意識が変わってきていることを、自民党の候補者が実感できているとはとても思えないほど、勘違いだらけだった。

僕は麻生さんが好きだ。もうちょっと党の環境や経済の環境が良いときになっていたらよかったとかわいそうにも思うが、それでも演説を聞いていると、「ああ勘違いしているなあ」と思った。 「日の丸」のことにこだわっていたのは理解不能だし、責任とか安心とか財源とか言えた立場じゃないのに、どうしてあんなに恥ずかしげもなく訴えられたのか。どうしてあんなに民主党を批判することに終始したのだろう。それらすべてやればやるほど、有権者の心が冷め逃げていくということに、どうして麻生さんや党本部は気づかなかったのだろうか。不思議でならない。

ちなみに、公明党の「永田町が小学校だったら」という何本かのネットCMは、最悪の内容だった(今の公明党が口汚くなってきていることの背景がなんなのか、思うところがあるが、それは書かない)。他にもいろいろと、感覚が麻痺しているよ、と嘆くことしきり。

民主党のマニフェストが素晴らしいものではないにしても、後出しした自民党のマニフェストの中身があんなにスカスカじゃあ、どうしようもないでしょう。どっちに真面目さが表れているかというと、断然民主党だった。それに、国家というものが見えてこないという点では、別に自民も公明も民主も同じで、子どもへの手当なんていうものが大きく取り上げられるのは、国政選挙としてはどうなんだろうと首を傾げたくなる。

真面目さといえば、これは塩爺が言っていて、なるほどそうだと思ったのだが、自民党の候補者は「上から目線」の人が多かった。今回の選挙を勘違いしている証拠。それに対して、民主は若くて情熱が感じられる新人が多かった。

すぐ隣なので注目していた長崎2区の福田衣里子さんは、発する言葉ひとつひとつに重みがあり、強さがあり、響きがあった。毎回、聞いていて涙が出た。巨大な国家権力と戦ってきた経験と政治家としての能力をイコールでは結べないかもしれないが、きれい事を言わせてもらえるなら、そもそも現代の民主政治というものは、彼女みたいなか弱い人を救っていくために存在しているはずではなかったのか。

福田さんに対して久間さんは、諫早干拓とか長崎新幹線とかそんなことばっかり。そういうことで有権者の心をつなぎ止められると思っていたとすると、やっぱり勘違いしている(でも、久間さん嫌いじゃないですよ)。

あとはうーんと、あっ、僕の周りはいつも選挙で忙しい人が多いが、今回は不気味なほど最後の数日静かだった。「当選圏内に入ったから」ということだったが、僕は全然それが信じられず、「どんなに頑張っても無理だから、きっと諦めたんだよ」と思っていた。結果的に敗れたわけだが、最後の2日間周りが気の抜けたような感じだったのは、票の読み違いだったのか、僕が思ったとおりの意図だったのか、その活動の中心にいるわけじゃないのでわからない。でも読み違えていたとしたら、それはもう組織で選挙を動かせる時代ではなくなった証拠だと思う。街頭に集まってきた人、集会に足を運んだ人だけの感触では絶対にわからない。そういうところに参加しない人たちのほうが圧倒的に多く、投票率が上がれば上がるほど、顔の見えない人たちの判断に委ねられるようになってくる。

今回は、自民党や自公政権にうんざりしていた人は本当に多かった。それが、あまり接しないごく一般の有権者のなかにも「静かに」「強く」共有されていたと思う。実際に自民の落選した大物が、「選挙運動した感覚では勝ったと思ってたけどね」ということを口にしていたが、接戦を抜けたと思ったのにふたを開けたら違っていた、というケースも結構あったかもしれない。でも、民主主義はそれでいいのだと思う。票が読める選挙、という今までのスタイルが、どちらかというと間違いなのではないだろうか。

徒然に書いていますが、あと、静岡の城内実さん、4年間ずっと報道があるたびに注目していたが、勝っちゃうなんて偉いなあ。郵政の問題はさておき、こういう強い信念の持ち主は見ていて気持ちいい。それから、いわゆる小沢ガールズと呼ばれている刺客の女性たち、小沢さんって選び方が絶妙だなと感心した。誰ひとり見ても、片山さつきや佐藤ゆかりのような刺々しさや嫌みな感じがなかったし(報道見る限りですけどね)、みんな笑顔が美しかった(←そんなことか、と言わないで)。しゃべり方といい、振る舞いがよく訓練されているなあ、と感じた。

最後に、民主党は子ども手当ての代わりに、配偶者控除と扶養控除をなくすと言っているが、そんなことしたら課税所得に多大な影響を及ぼすので、これは大問題になるのではないかと思う。だってみんな、年末調整や確定申告のときの節税対策で、所得控除といえばまず考えるのはこのふたつでしょう? 対象者が3人ぐらいいればすぐに100万円超の違いが出てくるのだから、あるのとないのとでは大違いだ。女性を家に閉じ込めるな、という民主党の言い分もわかるけど、だったら配偶者控除だけなくして、扶養控除は対象が子どもだけではないのだから、子ども手当てに該当しない被扶養者がいれば扶養控除を維持する、もしくは配偶者控除も、今の配偶者特別控除で行なわれているように、配偶者本人の所得に比例して控除額を減額する、といった修正をしてほしいものだと願う。

昨日の感想をいろいろ書きました。とりあえず以上。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2009年8月10日

政局LIVEアナリティクスの記事

昔、僕が持論として展開していて、研究テーマだった内容が、この人の記事にほぼ丸ごと書いてある。

政局LIVEアナリティクス 第29回「民主党政権だと安全保障が進展するというパラドックス」

内容は一度だけ小さな研究会で発表しただけで、レフリー付き論文として出したわけでもなく、今は学者でもないので、どこの誰が同じような論を展開しようが、クレジット云々とも言えないのだが、ちょっとばかり寂しい気分。その研究会で僕の発表を聞いた人なだけに。

この人の言うとおり、自民党が弱いときのほうが、実は安保政策は進展するのです。理由は上のリンクを読むべし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 8日

ふろふき大根、かんぽの宿&シルクロード

大根は食っても食っても、誰かしらまた持ってくる。本当に脚ぐらい太い大根ができるもので、そんなものもらってしまった日には途方に暮れる。

一向に在庫が減る気配がないので、ちまちました食べ方はやめようと、ふろふき大根を作ることにした。っていうか、無性にそれが食べたかったのです。あんまり主張すると自分が作る羽目になるのだが、今日は兄が張り切って作ってくれたので助かった。昆布だしをベースに、米を混ぜて大根を炊いていた。みそはもう少し甘辛くてもいい感じ。面取りをちゃんとしてあったら、さらに点数高かったが。でも、熱々の大根は冬にはもってこいの一品で、おいしゅうございました。

政治家の話って、なんであんなにバカバカしいのか。かんぽの宿なんて、どんなに安くったって、維持して莫大な赤字が増えるより早く売れればそれでいいじゃないの。不透明だっていうならもう1回入札やってもいいだろうけど、どのみちそんなに高くはならないと思うけどなあ。そもそも、「建設費2400億円」を持ちだしてきて落札価格が安すぎるなんて批判するのは、とってもナンセンスだと思う。建設費と比較してどうするの?

でも、あんまりネガティブな命は出さないでおこう。これ以上書くと、定額給付金のことで長々と文句を書いてしまいそうだ。一言だけ。「国民目線で」とか「庶民の気持ちがわかる」なんてよく言っている某党の人たち、そんなこと言うのは傲慢だよ。ちゃんちゃらわかっちゃいねえっつうの。

宮本輝『ひとたびはポプラに臥す1』(講談社、1997)を読む。たしか以前に3巻ぐらいまで読んだのかなあ。図書館で本棚を眺めてたら、また読みたくなった。

僕の友人はこの本を評価しないし、その理由もわかるんだけど、あえて「今(といっても10年以上前)のシルクロード」という視点に立って、変にロマンティシズムに陥ることなく、感じたものを書こうという姿勢で書いてあるのだと思う。

この本を読んで、シルクロードを旅したいと思うようになる人はいないだろう。でも、現実のシルクロードはそんなものなのだ。行く先々で、社会主義国家の役人の堕落ぶりに怒りを感じ、人々の生気のなさに虚しさを覚え、食べ物がまずくて下痢に悩ませられる。そんななかで、鳩摩羅什も永遠もあったもんじゃない、というのが正直な気持ちだろう。でも、折々に手紙の形式で綴られている文章のなかに、その猥雑な現実を離れて、彼の感じたものの上澄みの部分が表現されているのではないだろうか。手紙って、宮本文学ではいつも大事なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 6日

フクヤマ続きですが

昨年後半から、週一ぐらいの割合で近くの温泉へ行く。今まで、温泉街にいながら温泉には滅多に入らないというもったないことをしていたが、最近はここの温泉のなかでも泉質の評価がとても高い旅館の風呂に、兄と一緒に行くようになった。芋の子を洗うような多い時は避けたいので、旅館から情報をもらって、泊まり客が少ない時にふらりと何も持たずに出掛ける。

だだっ広い風呂にのんびりと浸かるのは気持ちいい。いろんな嫌なことを忘れて、一気に気持ちを切り替えることができる不思議な空間だ。それに、肌がツルツルになる。そりゃあ女性には人気あるわな。

『歴史の終わり』の続きで、フランシス・フクヤマの『アメリカの終わり』(講談社、2006)を読んだ。ネオコンとは伝統的にどういう主張をしてきたのか、イラク戦争でネオコンたちは何を誤ったのか、これからのアメリカの外交政策はどうあるべきかを考察している。

フクヤマがまずもって強調したかったのは、イラク戦争によってネオコン思想は完全に歪曲されてしまい、もはや本来の意味に戻すのが不可能であるということだ。なぜネオコンと目されていた彼がブッシュの戦争方針に反対したのかも、彼が指摘するネオコンの伝統に沿って考えれば、自ずと理解できる。言ってみれば、ブッシュ政権によってネオコン思想はズタズタにされてしまったのだ。

彼が今後の米外交の方向性として主張する「現実主義的ウィルソン主義」は、リアリストとリベラリストとネオコンとの寄せ集めのような考えだが、ブッシュ政権のような異常に偏った政策の取り方(予防戦争、敵か味方かの二元論、国際法や国際機関の軽蔑や都合のいい解釈、など)を除けば、概ねアメリカの政策は今までも、そしてこれからも、彼の主張から大きく外れるものではないだろうと思う。重要な点は、国連というひとつの世界規模の機構だけにすべてを任せるのは無理で、多数の国際機関やそれに準ずる組織が、問題を分担して管理解決していく、それらの連帯のなかで世界政治を運営していくという「重層的な多国間主義」を掲げていることだろう。これは、アメリカの理想と国益がもっとも合致して力を発揮したのが第二次世界大戦直後、様々な国際機関の創設や国際協調をアメリカ主導で成し遂げた時である、という著者の確信からきている。この見解については、かなり意見が分かれるだろうと思うが……。

ネオコンについて簡潔に歴史と思想的背景が書かれているので、そういう点ではお薦めできる本だ。また、アメリカの「善意による覇権」という考えとイラク戦争との関係についても把握することができる。

昨日から、サミュエル・ハンチントンの The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order を読み返している。字がちっちゃくて、なかなか進まないけど、こういうパラダイムシフトになったような本は、読んでいて引き込まれる。この本も批判が多いが、パラダイムやフレームワークを提供する目的で書かれた論考の細かい部分を批判するのはナンセンスだといつも思う。だって、周辺を捨てるリスクを取って、核となる部分を主張しているのだから。

源氏物語も岩波文庫の1巻目がようやく終了して、「須磨」に入ったところ。「そうだった、源氏はイケない関係(朧月夜との)がばれてしまって、いっとき都から逃げるんだった」と思いだした。寝る前に読みながら、いつもすぐに沈没している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月27日

なんとやっと今年初めてのエントリ

年が明けてもうひと月経とうとしている。

どうして何も書かなかったというと、こういう匿名のブログに嫌気がさしてきて、どうせならちゃんとしたサイトを作ろうかなと思ったりしていたから。しかし、実際的にそんなことにせっせと時間を費やすわけにもいかず、また公けの立場でもあるまいし、わざわざ実名で発信する意義はないだろうと悩んでみたり。でも、自分メディアはちゃんと持ちたいし、そのためには責任が生じる方向へ自ら追い込む必要はあると思う。まっ、そのうちに。今は、大したことも発信していないので、どのみち意味がない。

そういえば最近、知り合いが某経済誌のオンライン版で政治関係の連載を持っているのを発見した。去年の夏からやっているようだ。大学でも職を得たらしく、わがことのようにウキウキした。

連載の内容はというと、かなり大上段に構えた物言いで、そこまで断言できるバックグラウンドがあるのだろうかと、勝手な心配をしてしまった。危うい橋を渡っている気がしないでもないが、それこそ責任もって書いているだろうから、これから参考にさせてもらおうと思う。フィードの購読にさっそく登録した。

さて、年末に読み始めたフランシス・フクヤマの The End of History and the Last Man を今月半ばに読了。日本語版も読んだが、こうしたややこしい議論をしている本にありがちで、日本語より英語の原書のほうが断然スッキリと頭に入ってくる。

10年以上の時を経てあらためて読み返したが、じっくり内容を追っていくと、別に納得できないところはない。この人も誤解されているなと感じる。単純な図式で、冷戦が終わり西側の民主主義が勝利した=歴史の終わりだ、と叫んでいるのではないし、これから先のことを断言しているわけでもない。そこには、ヘーゲルを軸に、プラトンからホッブスやロック、カントを経てニーチェにいたる西洋の Natural Man (自然人)や Universal History (普遍的歴史)に関する深い哲学的考察があるのであって、そこから紡ぎだされる「人間とは何か、何を求めているのか」という姿のほうが、重要なのだと思う。人間は根本的に「認知」への欲求があるのであり、それを求めることで、歴史が進み、社会が変化してきた、という主張には、大きな間違いはないはずだ。

それに、歴史の終わりに登場する自己の利益のみを追求する人間たちへの懸念は、今の supercapitalism に通ずるものがある。そこから反動で歴史があと戻りすることのないように、社会のかじ取りをどうしていけばいいのか、という難しい問題が私たちに突きつけられているということを、フクヤマ氏は言いたいのだろうと思う。

ところが、著者が何度か念を押しているところから推測するに、「歴史の終わり」を文字通り時系列な歴史が終わる、と大きな勘違いをしている批判者もいるのだろう。それではまるで話のレベルが違うのであって、最初からまったくかみ合うはずもない。

この本を手始めに、今年はせめて10冊ぐらいは英書を読もうと思う。なるだけ深みのある本を。

話は変わるが、日曜日にFP技能士3級の試験を受けた。3級から受けるしかないので受けたが、完全になめていたら、過去問をやってみると、基本的だけどいやらしく細かい知識を問う問題が多かったので、これはまずいと思って、さすがに先週は勉強した。金融商品から、税や不動産、相続まで、浅く広く勉強する必要があった。

試験後に発表された解答をみると、学科は8割正答で、実技(個人資産相談業務)は1問しか間違っていなかったので、マークシートの読み取り違いといったあり得ないことが起こらない限り合格だろう(6割正答で合格)。正直言って、学科の問題をやりながら、「げー、俺こんなの知らないよ」という箇所がいくつもあったが、常識に立ち返ることを基本にして、今までの経験を振り返ってみたり、勉強したことから派生して考えたりした解答の多くが正解であったことは、かなり嬉しかったし驚いた。

次に2級を取って、同時並行で民間のAFPのための単位も取得して、AFPの認定も受けるのが今年の目標。それが今の僕にとってどれだけ意味があるかはわからないが、とりあえず取っておけるものは取っておこうと。本当は、業務独占の資格を取ったほうが稼げるのだろうが、興味のないことをお金のためと割り切って勉強したいとは思わない。ただ、この世の中を生き抜くためにいろんな知識は必要であり、知らないがゆえに損している苦しんでいる人が多いので、そういう人たちを救っていくには、実務的な知のネットワークを作ってアドバイスすることは重要だろうと感じている。弁護士になっておけばよかったなと思うこともあるが、ビジネスのほうが苦しくても面白いので、僕自身は最終的に中小企業診断士が取れればいいかな。これも難しいわりには資格なくてもできる仕事だけどね。あっ、でも年取ったら大学院に入りなおして、学位を取りたいなあ。それこそ大いなる無駄だけど、人間は無駄なこともたくさんやらないと、深みのないつまらない人間で終わってしまう。タモリ倶楽部のような無駄はとっても大事なのです。

いろいろ書きたいことはあるが、夜遅くなったのでこのへんで。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月21日

ブッシュの時代について来年は考えたい

おいしいものを食べ、温泉に浸かり、楽しい時間もあった週末。しかし、個人的な楽しみなどどうでもいいとも思える週末。

ブッシュ政権が終わるのを機に、8年間のブッシュの時代とは一体なんだったのか、来年は考えたいと思う。インサイダーによるドキュメンタリー的な物語は、それはそれで興味はあるが、もっと大きな視点でこの時代を自分なりに考えてみたい。

そういうことを思い描いていたら、なんとなく、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』に立ち返ってみたいと思った。この本に批判が多いのは百も承知で。読み始めてしばらくしたら、原書 The End of History and the Last Man を持っていることを思い出したので、本棚から引っ張り出してきて、両方読んでいる。

それから、なかなか進んでいなかったグリーンスパンの The Age of Turbulence を、今日は60ページほど読んで11章まで終わった。時系列に綴った回顧録の部分はこれで終わりで、あとは経済の理論や実態に対する見解となる。ちなみに、11章でのブッシュ政権に対する語り口は厳しい。ブッシュ・シニアの時代についてもあまりよくは書いていない。その間のクリントン時代が明るい時代として描かれているのとは落差が大きい。

散々非難してきた日本のゼロ金利政策と同じ道を、今アメリカはたどり始めた。9・11で明けたブッシュの時代は、戦争に明け暮れ、最後はアメリカ発の世界的で大規模な金融・経済の混乱とともに黄昏を迎えている。その日暮れがまったく美しくないことは、あのイラク人記者の靴投げが如実に物語っている。今、賞賛すべきものがあるとしたら、大統領の反射神経の良さしかない。

さて、今の派遣社員の首切り問題を見ていると、まさに企業の考え方が supercapitalism だなと思う。大企業は莫大な内部留保やキャッシュがあるのに、一方で解雇をどんどん進めるのである。政府の雇用対策が功を奏すれば、まだまだ日本の資本主義と民主主義のバランスは健全といえるだろうが、企業側はきっと「努力します」で終わりなんだろうと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月15日

ゆっくりと2日間

木曜・金曜は福岡でゆっくり過ごした。

外交ジャーナリストの手嶋龍一氏の講演会に参加した。一般向けだったので深い話はなかったが、ところどころ面白い内容だった。モノづくりをしていないアメリカの将来に対して懸念を表明していた。

アメリカが民主党政権になることで、政界・財界のいろんな人たちから「日米関係はどうなるんでしょうか」と尋ねられるという。そういう日本の受身の姿勢を「天気予報みたいなものだ」と批判。天気を自分の手で変えることは(中国政府を除いては)不可能で、予報をして結果的にどうなるか待つしかない。日本の対米政策はその天気予報そのもので、何も自主的な政策がないという。

まさにその通りで、僕が不思議でならないのは、アメリカは共和党と民主党が定期的に交代して政権運営するということが明白なのに、なんで毎度々々、民主党政権になるたびに慌てて、「人脈がない」とか「日本より中国が重視される」とか「今後の日米関係は難しい」などというバカな話が出てくるのか、ということだ。それが本当だとしたら、自民党や外務省はいったい何をしているのか。まるで長期的な視野もないし、だから戦略もないということになる。愚かなり、愚かなり。

講演会終了後、一緒に参加した人とお茶をして、誘われるままに中州でおいしい中華をいただいた。途中、タミール語と日本語の近似性から派生して、天皇家のルーツはインドにあって、南から海を通って日向へやってきたのではないか、古事記をどう解釈したらいいのか、という話で盛り上がる。

昨日は朝、ホテルのラウンジでコーヒーを飲みながらゆっくりしたあと、いくつか用事を済ませて、Comment Allez Vous(コマンタレブー)という、川沿いのしゃれたカフェでランチ。もうちょっとひねった店名はなかったのか、という疑問はさておき、ロケーションや雰囲気はとってもいい。頼んだチキンカレーは十分にボリュームがあり、おいしかったです。

コマンタレブーのエスプレッソ

食後のエスプレッソ。カップが輝いていたので、飲んでいる途中で携帯を取り出し、メールを見ているふりして一枚。僕にはまだ、お店の中でデジカメを出す勇気はないなあ。

キャナルシティの映画館へ行き、綾瀬はるかの『ICHI』を見た。いろんな役をこなしますなあ。笑わない綾瀬はるかは、笑顔の綾瀬はるかと同じくらい魅力がある。と思うようになったのは、『白夜行』を見てから。監督もあのドラマでの表情を抜擢のひとつの理由に挙げていた。

思っていた展開じゃなかったけど、なかなか見応えはあった。窪塚はちょっと役より軽い感じだったが、中村獅童ははまっていて、いちばん存在感があったと思う。

帰ってから、姪No.2とああでもない、こうでもない、と長々といろんな話をした。話しながら、いつの間にか寝てしまっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 5日

アメリカが持つ底力

4年に一度、僕は必ずといっていいほど、アメリカという国に抗しがたい憧れを感じてしまう。大統領選挙の報道を見るたびに、たとえいっときであれ、政治と理想、政治と希望が結びついて、美しい未来を見つめられるアメリカの国民は幸せだなと羨ましく思うのである。もちろん、国民の半分近くは肩を落とすであろうが、待っていればそのうち、その人たちが酔うときがやってくる。どのみち、政治の季節に彼らは熱狂し、定期的に明確な変化を体験する。

今回はなおさらである。バラック・オバマの勝利宣言を聴きながら歓喜している人たち、感涙にむせぶ人たちの胸に去来したものは、「私は歴史に参画している」という高揚感だったろうと思う。"Yes, we can"を心底信じて一票を投じた人もあろう、暗黒のブッシュ時代を経て今こそアメリカは変わらなければ、と奮い立って選挙活動をした人もあろう。おそらく政治の現実は、今日皆が酔いしれたアメリカの理想や希望や価値や誇りの多くの部分を押し流してしまうに違いない。それでもなお、今回の結果はアメリカの変革であり、アメリカの歴史に大きく刻まれる一大事である。どんなに欠点を抱えていようとも、こうやっていざというときに一歩前へ進むエネルギーを持つこの国の底力には感動する。

オバマを支持した人々同様に、これから僕たちも、彼の「言葉の力」に打ち震え、突き動かされるであろうか。どこまで現実政治のなかに理想が入り込めるのかはわからないが、何かキラキラとした輝きが珍しく国際政治に見えてくるのかもしれない。ここ十数年、国際政治での理想主義を完全に排除してきた僕だが、今晩は少しばかりロマンティシズムを感じている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月27日

政治の行き詰まりは「システム」の問題

麻生内閣の支持率が意外と高くないことが取り沙汰されているが、
これは首相本人の問題ではなく、
2代続けて1年で政権を放り出した自民党への
嫌気と冷めた態度の反映であると思う。
総選挙が迫り、この内閣がゆっくりと仕事をすることはなさそうだから、
そもそも期待しても意味がない、という思惑も加味されるべきだろう。

僕はずっと麻生さんを応援してきた。
そのことはこのブログでも、小泉政権末期の頃から時々書いてきた。
安倍さんも福田さんも、総理大臣として適さないことは明らかだったのに、
こぞって彼らに投票した多くの自民党の議員は阿呆である。
できれば、ふたりともに投票した議員は、
「私が盲目でした、すみません」と言って辞職してほしいくらいだ。
それほど重い責任を彼らは感じるべきなのだ。

だから、麻生さんが総理・総裁になったのは嬉しいことなのだが、
あまり手放しで喜べない。
ひとつは、総理になった時期が悪すぎて、短命に終わる可能性があるから。
もうひとつは、誰がトップになるにせよ、日本の政治の質を根本的に高めるには、
自民党=官僚によるなれ合いの政策決定過程のシステムを壊すしかない、
と強く感じるからである。

政治の行き詰まりは、究極のところ、
戦後ずっと続いているこの「システム」の問題である。
多少のごたごたは時折起こりながらも、ほとんどすべてがルーティンのように流れていく。
そこに官僚の緊張感はないし、政治家の成長もない。
だから、「ねじれ国会」などという異常な(本当は異常でもなんでもないんだけど)状態に置かれると、
途端に泣きべそをかいて、相手のせいにして、自分勝手に逃げ出す。

政策が生活の質を大きく左右することを考えれば、
永田町に定期的な新陳代謝が起こるほうが、まったく起こらないよりはいいに決まっている。
公明党も、「政治の安定のため」などときれいごとを言って、
実際は自民党の延命装置になってしまっていることを反省したほうがいい。
創価学会員が自民党候補に投票しなければ、
とっくの昔に自民党は崩壊し、システムも変更を余儀なくされていたはずだ。

麻生さんはちゃんと仕事をする人だと思う。
しかし、麻生さんには申し訳ないが、この国を変えるためには、
自民党が政権から追われるのが早道だ。
短命に終わったとしても仕方がない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧