カテゴリー「書籍・雑誌」の16件の記事

2009年10月26日

太った。経済学。MT。

いろんなことをしているが、地に足がついていないことを反省する日々。

いろんなものにゆず胡椒をつけたくなる秋から冬への日々。

この1ヶ月で2キロ近く太った。自分のベストだと思っていた体重から、最大4キロ以上落ちていたので、なんとか戻したかったのだが、なかなか戻らなかった。それがここへきて、急な増加。ひとえに精神的なものが大きいと思う。気の持ちようを変えてからストレスがかなり減った。

ジェフリー・サックス著『地球全体を幸福にする経済学』(早川書房)を読む。「みんな協力したら、人口問題も気候変動も水問題も貧困も、絶対に解決できる」というメッセージを、データや過去の実績を通して訴えている。

私たち人間は、見えない力に動かされる歴史のこまにすぎないとはいえ、同時に、歴史を動かすこともできる存在だ。世界が共有の目標のもとに結集するか、それとも戦争と相互不信に陥るかを決めるのは、私たち自身の意志である。成功へのチャンスは、私たち一人ひとりが、社会のそれぞれの立場で、どれだけ変化を求める積極的な力になれるかにかかっている。とどのつまり、ジョン・ケネディがいったように、平和とは魔法の杖の一振りで得られるものではなく、「多くの行為の積み重ね」であり、一つのプロセスなのだ。(中略)エネルギーと勇気をもって、断固として「ノー」に抵抗しよう。最後の「イエス」を勝ち取る日まで。(p. 421)

いいですね、こういうの。冷めたことしか言わない学者が多いなかで、こんな熱いこと言えるのは、主義の違いを超えて愛すべきスカラーだと思う。

ブッシュ政権への痛烈な批判も随所に盛り込まれている。「テロとの戦い」と言いながら、長期的にそれを助長するような政策のミスばかりしてきた、と。

そういえば、ブクログは何も更新していないなあ。そのうち、ブログを全部ひとまとめにして、自分のポータルを作って管理・発信しようと思っているが、来月出る予定のMovable Type 5 が使い勝手が良さそうなので、それまで待つつもり。昔、MT3でブログを作ったこともあったが、当時と比べたら、かなり機能はレベルアップして、使いやすそうなので。

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2009年3月 8日

『資本主義は嫌いですか』を読む

ずっと読もうと思っていた竹森俊平著『資本主義は嫌いですか―それでもマネーは世界を動かす』(日本経済新聞出版社、2008)を一気に読む。

サブプライム問題を中心に、バブルと流動性に関する分析?、というか分析の対立軸の紹介。読み通すのにある程度の知識はいるが、一般向けに分かりやすく書かれている。サブプライム危機の本質とは何なのか探りたい人には、いろんな観点からの議論がまとめられているのでお薦めです。

でもなんというか、どっちつかずで結論はない。あるとしたら、マネーが抱えるジレンマのあぶり出しだろうか。バブルはいつかバーストするという危険を孕んでいるが、バブルが起こらないと経済の成長はない、とか。読みながら、貨幣経済のシステムから逃れられない現代世界に生きる僕たちは、リスクと不確実性を重く背負いながら、うまく生きていくしかないのだ、という思いを強くした。そんなため息とともにタイトルを見返してみると、「仕方ないんだよねぇ」という著者のインプリケーションを感じる。

さて、もうとっくの昔の話のようだが、FP技能士3級の結果発表があり合格していた。2級からが本物なので、今年中に受けたいと思う。5月に受けられるかどうかは微妙だけど。

それから、ある古典の翻訳を一緒にしないか、というオファーがあり、引き受けることにした。いつ完成するやら、果たして完成するのやらわからないけど、知的作業はいくらやっても楽しいので参加することに。

田んぼに菜の花がちらほら咲き始めている。春が近づいてきた。

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2009年2月 8日

ふろふき大根、かんぽの宿&シルクロード

大根は食っても食っても、誰かしらまた持ってくる。本当に脚ぐらい太い大根ができるもので、そんなものもらってしまった日には途方に暮れる。

一向に在庫が減る気配がないので、ちまちました食べ方はやめようと、ふろふき大根を作ることにした。っていうか、無性にそれが食べたかったのです。あんまり主張すると自分が作る羽目になるのだが、今日は兄が張り切って作ってくれたので助かった。昆布だしをベースに、米を混ぜて大根を炊いていた。みそはもう少し甘辛くてもいい感じ。面取りをちゃんとしてあったら、さらに点数高かったが。でも、熱々の大根は冬にはもってこいの一品で、おいしゅうございました。

政治家の話って、なんであんなにバカバカしいのか。かんぽの宿なんて、どんなに安くったって、維持して莫大な赤字が増えるより早く売れればそれでいいじゃないの。不透明だっていうならもう1回入札やってもいいだろうけど、どのみちそんなに高くはならないと思うけどなあ。そもそも、「建設費2400億円」を持ちだしてきて落札価格が安すぎるなんて批判するのは、とってもナンセンスだと思う。建設費と比較してどうするの?

でも、あんまりネガティブな命は出さないでおこう。これ以上書くと、定額給付金のことで長々と文句を書いてしまいそうだ。一言だけ。「国民目線で」とか「庶民の気持ちがわかる」なんてよく言っている某党の人たち、そんなこと言うのは傲慢だよ。ちゃんちゃらわかっちゃいねえっつうの。

宮本輝『ひとたびはポプラに臥す1』(講談社、1997)を読む。たしか以前に3巻ぐらいまで読んだのかなあ。図書館で本棚を眺めてたら、また読みたくなった。

僕の友人はこの本を評価しないし、その理由もわかるんだけど、あえて「今(といっても10年以上前)のシルクロード」という視点に立って、変にロマンティシズムに陥ることなく、感じたものを書こうという姿勢で書いてあるのだと思う。

この本を読んで、シルクロードを旅したいと思うようになる人はいないだろう。でも、現実のシルクロードはそんなものなのだ。行く先々で、社会主義国家の役人の堕落ぶりに怒りを感じ、人々の生気のなさに虚しさを覚え、食べ物がまずくて下痢に悩ませられる。そんななかで、鳩摩羅什も永遠もあったもんじゃない、というのが正直な気持ちだろう。でも、折々に手紙の形式で綴られている文章のなかに、その猥雑な現実を離れて、彼の感じたものの上澄みの部分が表現されているのではないだろうか。手紙って、宮本文学ではいつも大事なのだ。

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2009年2月 6日

フクヤマ続きですが

昨年後半から、週一ぐらいの割合で近くの温泉へ行く。今まで、温泉街にいながら温泉には滅多に入らないというもったないことをしていたが、最近はここの温泉のなかでも泉質の評価がとても高い旅館の風呂に、兄と一緒に行くようになった。芋の子を洗うような多い時は避けたいので、旅館から情報をもらって、泊まり客が少ない時にふらりと何も持たずに出掛ける。

だだっ広い風呂にのんびりと浸かるのは気持ちいい。いろんな嫌なことを忘れて、一気に気持ちを切り替えることができる不思議な空間だ。それに、肌がツルツルになる。そりゃあ女性には人気あるわな。

『歴史の終わり』の続きで、フランシス・フクヤマの『アメリカの終わり』(講談社、2006)を読んだ。ネオコンとは伝統的にどういう主張をしてきたのか、イラク戦争でネオコンたちは何を誤ったのか、これからのアメリカの外交政策はどうあるべきかを考察している。

フクヤマがまずもって強調したかったのは、イラク戦争によってネオコン思想は完全に歪曲されてしまい、もはや本来の意味に戻すのが不可能であるということだ。なぜネオコンと目されていた彼がブッシュの戦争方針に反対したのかも、彼が指摘するネオコンの伝統に沿って考えれば、自ずと理解できる。言ってみれば、ブッシュ政権によってネオコン思想はズタズタにされてしまったのだ。

彼が今後の米外交の方向性として主張する「現実主義的ウィルソン主義」は、リアリストとリベラリストとネオコンとの寄せ集めのような考えだが、ブッシュ政権のような異常に偏った政策の取り方(予防戦争、敵か味方かの二元論、国際法や国際機関の軽蔑や都合のいい解釈、など)を除けば、概ねアメリカの政策は今までも、そしてこれからも、彼の主張から大きく外れるものではないだろうと思う。重要な点は、国連というひとつの世界規模の機構だけにすべてを任せるのは無理で、多数の国際機関やそれに準ずる組織が、問題を分担して管理解決していく、それらの連帯のなかで世界政治を運営していくという「重層的な多国間主義」を掲げていることだろう。これは、アメリカの理想と国益がもっとも合致して力を発揮したのが第二次世界大戦直後、様々な国際機関の創設や国際協調をアメリカ主導で成し遂げた時である、という著者の確信からきている。この見解については、かなり意見が分かれるだろうと思うが……。

ネオコンについて簡潔に歴史と思想的背景が書かれているので、そういう点ではお薦めできる本だ。また、アメリカの「善意による覇権」という考えとイラク戦争との関係についても把握することができる。

昨日から、サミュエル・ハンチントンの The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order を読み返している。字がちっちゃくて、なかなか進まないけど、こういうパラダイムシフトになったような本は、読んでいて引き込まれる。この本も批判が多いが、パラダイムやフレームワークを提供する目的で書かれた論考の細かい部分を批判するのはナンセンスだといつも思う。だって、周辺を捨てるリスクを取って、核となる部分を主張しているのだから。

源氏物語も岩波文庫の1巻目がようやく終了して、「須磨」に入ったところ。「そうだった、源氏はイケない関係(朧月夜との)がばれてしまって、いっとき都から逃げるんだった」と思いだした。寝る前に読みながら、いつもすぐに沈没している。

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2008年12月 4日

今いのちに満ち溢れて

Supercapitalism を読了。本文は200頁ちょっとと薄かったので、ゴールはそう遠くなかった。

Supercapitalism

データや具体例に誤りが多い、という批判もあるが、現代の政治経済構造の本質に迫る議論は十分に読みごたえがある。

要は、「消費者」や「投資家」、そしてそれに応答すべく奔走する「企業」に重心が傾いていて、超資本主義と堕している現代の政治経済を改善すべく、「市民」の意識を高めて、資本主義と民主主義のバランスを取り戻そうという話。かといって、別に左がかった主張でもない。

著者が指摘するように、実は一人ひとりのなかにたとえば、より安くより良い商品やサービスを求める消費者のマインドと、公平さと公正さを求める市民のマインドが同居している。そうして、みんな胸に手を当てて考えてみたらいいが、大抵の場合、前者の気持ちが勝ってしまう。その高まる一方の欲求が、企業を世界規模で際限のない競争に駆り立てている。今の不公平な世を嘆いたとしても、それは自分自身が招いたものともいえるのだ。

卑近な例でいうと、地元の商店街が寂れていくのを嘆きながら、週末には平然と遠くのショッピングモールに車で買い物に行ったりする。矛盾しているなあと感じることは多々あるし、そんなときはちょっと罪悪感を感じたりするが、行動パターンは変わらない。消費者としてはごく当然のことをしているからである。つまり、それだけ市民の側のモチベーションを自分のなかで高く維持するのは難しい。

著者は最終的に、企業献金や法人に対する税制のあり方など政策面での話をしつつ、一人ひとりの心にも厳然と存在する超資本主義を乗り越えよう、と静かに訴えている。

平易な英語で書かれているので、興味のある方はぜひご一読を。

さて、昨晩は不思議な感覚に包まれて、突然、『草の葉』を読みたいと思った。そして、次の詩を読んだとき、僕はホイットマンに導かれたような気がした。

「今いのちに満ち溢れて」

今いのちに満ち溢れて、引き締まった現身(うつしみ)の姿でいる、
合州国紀元八三年に生きる四〇歳のぼく、
今より一世紀のち、あるいは幾世紀かを経たのちの世の人に、
まだ生れこぬ君に、君の姿を探し求めつつこれらの歌を。


君がこれらの歌を読むときかつて現身だったぼくはすでに見えぬ姿となり果てている、
こんどは君だ、引き締まった現身で、ぼくの姿を探し求め、僕の詩を成就するのは、
もしもぼくが君といっしょで君の僚友になることができたらどんなに幸福かと思うだろうが、
構わずぼくもいっしょだということにすればいい。(信じすぎてもらっても困るが、今ぼくは君といっしょだ)


『草の葉・上』(岩波文庫、pp. 335-6)

布団のなかで、僕は詩の魂ともいうべきものによって震えていた。そうだ、ホイットマンの力強く快活で人間味あふれる精神を体現するのだ、「ぼくの詩を成就」するのだ。

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2008年11月19日

源氏を読み進める

今週に入って取り組んでいること、それは「夜早く寝る」こと、そして、寝る前はバタバタせずに「ゆっくり過ごす」こと。そのためには、勇気をもって何かを「捨てる」ことをしなければならない。割り切って翌日にまわすとか。それから、昼間によりいっそう集中してものごとを解決していくことも大事。

これから先のことを考えて、どちらかというとダラダラしている生活リズムを整えるよう努力している。努力が習慣となり癖となって、性質にいたりますように。

『源氏物語』の原文は、いろんな本を試してみた。ごちゃごちゃとたくさん注釈が書いてあるのが最初はありがたかったが、だんだんとそれが邪魔になってきて、今では、主語などの最小限の補足しかされていない岩波文庫のものが、いちばん読みやすいと思う。

岩波文庫の源氏物語

ようやく8帖、「花宴」まで終了。読み進めながらあらためて感心というか感動を覚えるのは、そのタブーなき世界である。とくに、天皇制との絡みのなかで男女関係を考えた場合に、源氏と藤壺の関係などは、今だったらそんな話を書くことは許されないだろうと思う。しかし、源氏物語は、源氏の藤壺への思い抜きにしては話が成り立たない。

だから、戦前に谷崎潤一郎が最初の訳本を出すにあたって、不敬にならないよう相当神経質になって、たくさん削除したり表現をぼかしたりしたのも、時代の空気と原文の内容とのミスマッチを考えたら、しごく当然な話である。

ああいう大らかな王朝物語が堂々と書けた平安時代というのは、いったいどんな精神性に支えられていたのであろうか? 歴史が好きという人のなかで、「平安時代がとくに好き」という人はおそらく滅多にいないと思うが、僕らはもっと平安時代の精神というものに注目してもいいのかもしれない。

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2008年10月12日

源氏を読む

「もののあはれ」は『源氏物語』を原文で読んでみないとわからないのではないか、といって原文読破を試みている知人がいる。僕も触発されて、先週から、原文と、それだけでは容易に理解できないので、章が終わるごとに谷崎潤一郎訳(新々訳)とを読んでいる。「桐壷」、「帚木」、「空蝉」が終わり、今は「夕顔」。

源氏物語

今まで、谷崎と与謝野晶子と円地文子訳を読んだことがあるが、ここ十数年は読んだことがなかったし、原文をまともに読むのは初めてなので、話が進むごとに面白さを感じている。

平安時代から1000年の時を越えて、いかに日本語というものが変化しているか、そのことにあらためて新鮮な感動を覚える。日本語の古典よりも英語を読むほうがはるかに楽なくらい、同じ言語といってもかけ離れた言葉なのである。

しかし、谷崎の次のような但し書きには、現代にも通じる日本語のひとつの魅力を感じる。こう書いている。

この物語の中の和歌は、それが挿入してある前後の文章とのつながりが非常に微妙にできているので、そのつづき具合の面白さを味わうことが、和歌の内容を理解するのと同等に大切なのであって、(中略)これらの和歌の価値の一半がその調子にあることを念頭に置き、時として意味が分らないことがあっても、調子の美しさが感じられさえすれば、その場は一応それでよいとして、先へ進んでもらいたい。

日本語は繊細だなと思う。

加えて、ああいう男と女の世界が当然のこととして存在していた事実に羨ましさとともに愕然とする。その点でも、現代とはまるで異次元の世界である。しかし、有名な「雨夜の品定め」などを読んでいると、今の男も集まれば同じようなバカ話をするよなと思う。

果たして「もののあはれ」がわかるかどうかはわからないが、ぼちぼちと読み進めたい。

下の写真は、まったりとした土曜の午後、ひっそりと窓にへばりつくカエル。笑えたので一枚撮っておいた。

窓にへばりつくカエル

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2008年9月 6日

効率の良さを求めるのは大事

効率が10倍アップする新・知的生産術

勝間和代著『効率が10倍アップする新・知的生産術―
自分をグーグル化する方法』(ダイヤモンド社、2007)を読んだ。

そこまでするかという気もするが、
有限の時間を充実させていく努力をし続けていると、
この本のような行動パターンになっていくのだろう。
「情報」をどう扱うかとか、ものごとの整理をどうするか、
ということに執着しない人からしたら、
そんな生き方は「人間的でない」の一言で
否定されてしまうのかもしれないが、
この情報社会で生き抜いていくためには、
ある程度効率の良さを求めるのは必須ではないかと思う。

著者が紹介していたGmailの利用法はさっそく試している。
どこかで一元管理する必要はあると感じていたので。
食については、すでにかなり同じ内容を実践している。
他には、本にもっとお金をかける、もっとブログでアウトプットする、
ということを心がけようと思った。

ブクログをしばらく更新していなかったので、
最近自分が読んだ本が何であったか忘れてしまった。
いかんいかん。記憶のなんといい加減なことよ。

シェエラザード

最近、パソコンで作業をしているときは、
iTunes に入っているインターネットラジオの Sky.fm で
クラシックを聴いている。
いちばんそれが集中できるので。

数日前、良い意味で「なんだこれ?」と
心を奪われた曲があった。
タイトルが出ているので調べたら、
リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」というものであることがわかった。

僕はクラシックに全然詳しくないので、
コルサコフという作曲家の名前もシェエラザードというタイトルも知らなかったが、
その時はものすごい引き込まれ方をしたので、
これは自分の気持ちに正直になろうと思って、
すぐにアマゾンで探した。

カラヤンなどもあったが、レビューを読んでいて、
かなり好き嫌いが激しそうな感じだったのが、
このレオポルド・ストコフスキーの指揮。
安さにも惹かれて衝動買いしてしまった。

今日聴いた感じでは、先日のようなときめきはなかった。激しすぎる?
音質はレビューにもあった通り、はっきりと良くないとわかる。
まあ、何度か聴いてみます。他のと聴き比べもしてみようと思う。

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2008年6月16日

『アムステルダム』

なんと、庭でカニを発見した。10センチぐらいはあったから、向こうから容易にこちらの視界へ入ってきた。川から上がってきて、ここへまぎれ込んでしまったのだろうか。どこへ来てしまったのか、とカニさんは慌てふためいているやもしれず。まあ、自力で道は探しなさい。

週末、イアン・マキューアン著『アムステルダム』(新潮クレスト・ブックス、1999)を読んだ。ちょっと前に彼の『土曜日』を半分ほど読んでいたので、興味があって手に取った。

まずもって翻訳が上手だと思う。翻訳小説にありがちな文体の違和感をほとんど感じない。

3人の元恋人―作曲家と新聞編集長と外務大臣。それぞれの分野で成功を収めた3人が、亡くなった魅惑的な女性が残した写真をもとに交錯する。それぞれの「正義」を主張しながら。そして、3人ともに破滅する。

人物はよく描けている。いかにも、そういう考えをしそうな人々が身近にもいそうな感じがする。結局のところ、トータルで善の人間はいないという現代の病を明らかにしているのかもしれないが、僕はむしろそれがふつうの人間らしくていいのではないかと思った。編集長には共感できないが、外務大臣や作曲家にはちょっと肩入れしたくなる。

それよりもなによりも、みんなの追憶の中でしか出てこないモリー・レインという女性が持つ性向や付き合い方は、男にとっての女友だちとしてひとつの理想である。女性からは共感されないかもしれないが。

あっという間に読めるので、まだ読んでなくて興味ある方はぜひ。ブッカー賞作品。

「マンデリンの本棚」も参照してください。

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2008年5月30日

『海に帰る日』

海に帰る日ジョン・バンヴィル著『海に帰る日』(新潮クレスト・ブックス)を読んだ。クレスト・ブックスのシリーズは背表紙を見ていると思わず手に取りたくなってしまう不思議さがあって、今までも何冊か読みかけの小説がある。でも、最後まで読み通したのは今回が初めてだ。

少年時代の淡い恋の思い出と、結婚当時の様子と、妻が亡くなる直前のやり取りと、そして現在の出来事。「今」を基軸にしながら、この4つの時代が無秩序に出現して、交錯しながら物語は進んでいく。違う時間がこうまで入り混じっていると、最初何がなんだかわからない。しかし、記憶は時間軸に忠実に呼び起こされはしないので、渾然一体とした話も、「記憶」という観点からは自然な流れなのかもしれない。

最後の最後になって、ある存在が少年時代にも現在にも関係することがはっきりした。そのことがわかったうえで、もう一度読んでみる価値があるような気がする。

読みながら、ずっと風を感じていた。それから悲しげな海を。原文で読んだら、きっと美しい文体なのだろうと思う。

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