« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月28日

畑づくりのその後

昨年秋に始めた自家菜園は、1か月ほど前から、伸びてきたネギやシュンギクを適当に切って、時々口にしている。

これは今日取ってきて食べたもの。チンゲンサイ、ネギ、ミズナ、シュンギク。土がまだまだ痩せているので、たいした出来栄えではなく、とくに風味がどれも足りない気がするが、それでも自分で育てたものは買ってきたものとは違う愛着がある。野菜さんたちに感謝して頂きました。

Veg

かなり集中して作業している昨今。そんななか先日、高校生の姪が「これ、おみやげ~」といって持ってきたのが、MaxFactorの小さなパンフふたつ。綾瀬はるかがとってもかわいかったから、きっと気に入るだろうと思って、デパートの化粧品売り場から持ってきたらしい。

こんな写真です(法的な問題があるかもしれないので小さめに)。

Haruka

この効果は抜群で、やる気が落ちてきたときにふと眺めると、また元気になりまする。

姪が「前髪が私とかぶってる」と言うので、即座に「それは似て非なるものだ」と却下したら、「げー、ひどい!」と叫んで去って行った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月21日

赤ん坊の頃

寒い寒いと震えているうちに、気づくともう梅の季節になった。梅には、凛としていて厳かで落ち着いた美しさがある。僕は昔から梅が好きだった。

新しくネットショップを立ち上げるべく、地元の企業の方たちと打ち合わせや検討を重ねている。僕自身が「ここだったら間違いない」と思う生産者や製造業者を厳選して交渉しているのだが、皆さん乗り気になってくれて順調に進んでいる。こだわりをもって仕事をしている人々と話をするのはとても楽しい。お茶と焼き物とお米で、まずは契約を取り付けた。

そんなこんなで、バタバタしています。作業部屋を作るべく、倉庫代わりにしていた部屋を片付けていたら、僕の赤ちゃんのときの写真が出てきた。まあ田舎だこと。

My_photo1

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年2月 8日

ふろふき大根、かんぽの宿&シルクロード

大根は食っても食っても、誰かしらまた持ってくる。本当に脚ぐらい太い大根ができるもので、そんなものもらってしまった日には途方に暮れる。

一向に在庫が減る気配がないので、ちまちました食べ方はやめようと、ふろふき大根を作ることにした。っていうか、無性にそれが食べたかったのです。あんまり主張すると自分が作る羽目になるのだが、今日は兄が張り切って作ってくれたので助かった。昆布だしをベースに、米を混ぜて大根を炊いていた。みそはもう少し甘辛くてもいい感じ。面取りをちゃんとしてあったら、さらに点数高かったが。でも、熱々の大根は冬にはもってこいの一品で、おいしゅうございました。

政治家の話って、なんであんなにバカバカしいのか。かんぽの宿なんて、どんなに安くったって、維持して莫大な赤字が増えるより早く売れればそれでいいじゃないの。不透明だっていうならもう1回入札やってもいいだろうけど、どのみちそんなに高くはならないと思うけどなあ。そもそも、「建設費2400億円」を持ちだしてきて落札価格が安すぎるなんて批判するのは、とってもナンセンスだと思う。建設費と比較してどうするの?

でも、あんまりネガティブな命は出さないでおこう。これ以上書くと、定額給付金のことで長々と文句を書いてしまいそうだ。一言だけ。「国民目線で」とか「庶民の気持ちがわかる」なんてよく言っている某党の人たち、そんなこと言うのは傲慢だよ。ちゃんちゃらわかっちゃいねえっつうの。

宮本輝『ひとたびはポプラに臥す1』(講談社、1997)を読む。たしか以前に3巻ぐらいまで読んだのかなあ。図書館で本棚を眺めてたら、また読みたくなった。

僕の友人はこの本を評価しないし、その理由もわかるんだけど、あえて「今(といっても10年以上前)のシルクロード」という視点に立って、変にロマンティシズムに陥ることなく、感じたものを書こうという姿勢で書いてあるのだと思う。

この本を読んで、シルクロードを旅したいと思うようになる人はいないだろう。でも、現実のシルクロードはそんなものなのだ。行く先々で、社会主義国家の役人の堕落ぶりに怒りを感じ、人々の生気のなさに虚しさを覚え、食べ物がまずくて下痢に悩ませられる。そんななかで、鳩摩羅什も永遠もあったもんじゃない、というのが正直な気持ちだろう。でも、折々に手紙の形式で綴られている文章のなかに、その猥雑な現実を離れて、彼の感じたものの上澄みの部分が表現されているのではないだろうか。手紙って、宮本文学ではいつも大事なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 6日

フクヤマ続きですが

昨年後半から、週一ぐらいの割合で近くの温泉へ行く。今まで、温泉街にいながら温泉には滅多に入らないというもったないことをしていたが、最近はここの温泉のなかでも泉質の評価がとても高い旅館の風呂に、兄と一緒に行くようになった。芋の子を洗うような多い時は避けたいので、旅館から情報をもらって、泊まり客が少ない時にふらりと何も持たずに出掛ける。

だだっ広い風呂にのんびりと浸かるのは気持ちいい。いろんな嫌なことを忘れて、一気に気持ちを切り替えることができる不思議な空間だ。それに、肌がツルツルになる。そりゃあ女性には人気あるわな。

『歴史の終わり』の続きで、フランシス・フクヤマの『アメリカの終わり』(講談社、2006)を読んだ。ネオコンとは伝統的にどういう主張をしてきたのか、イラク戦争でネオコンたちは何を誤ったのか、これからのアメリカの外交政策はどうあるべきかを考察している。

フクヤマがまずもって強調したかったのは、イラク戦争によってネオコン思想は完全に歪曲されてしまい、もはや本来の意味に戻すのが不可能であるということだ。なぜネオコンと目されていた彼がブッシュの戦争方針に反対したのかも、彼が指摘するネオコンの伝統に沿って考えれば、自ずと理解できる。言ってみれば、ブッシュ政権によってネオコン思想はズタズタにされてしまったのだ。

彼が今後の米外交の方向性として主張する「現実主義的ウィルソン主義」は、リアリストとリベラリストとネオコンとの寄せ集めのような考えだが、ブッシュ政権のような異常に偏った政策の取り方(予防戦争、敵か味方かの二元論、国際法や国際機関の軽蔑や都合のいい解釈、など)を除けば、概ねアメリカの政策は今までも、そしてこれからも、彼の主張から大きく外れるものではないだろうと思う。重要な点は、国連というひとつの世界規模の機構だけにすべてを任せるのは無理で、多数の国際機関やそれに準ずる組織が、問題を分担して管理解決していく、それらの連帯のなかで世界政治を運営していくという「重層的な多国間主義」を掲げていることだろう。これは、アメリカの理想と国益がもっとも合致して力を発揮したのが第二次世界大戦直後、様々な国際機関の創設や国際協調をアメリカ主導で成し遂げた時である、という著者の確信からきている。この見解については、かなり意見が分かれるだろうと思うが……。

ネオコンについて簡潔に歴史と思想的背景が書かれているので、そういう点ではお薦めできる本だ。また、アメリカの「善意による覇権」という考えとイラク戦争との関係についても把握することができる。

昨日から、サミュエル・ハンチントンの The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order を読み返している。字がちっちゃくて、なかなか進まないけど、こういうパラダイムシフトになったような本は、読んでいて引き込まれる。この本も批判が多いが、パラダイムやフレームワークを提供する目的で書かれた論考の細かい部分を批判するのはナンセンスだといつも思う。だって、周辺を捨てるリスクを取って、核となる部分を主張しているのだから。

源氏物語も岩波文庫の1巻目がようやく終了して、「須磨」に入ったところ。「そうだった、源氏はイケない関係(朧月夜との)がばれてしまって、いっとき都から逃げるんだった」と思いだした。寝る前に読みながら、いつもすぐに沈没している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »