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2008年12月 4日

今いのちに満ち溢れて

Supercapitalism を読了。本文は200頁ちょっとと薄かったので、ゴールはそう遠くなかった。

Supercapitalism

データや具体例に誤りが多い、という批判もあるが、現代の政治経済構造の本質に迫る議論は十分に読みごたえがある。

要は、「消費者」や「投資家」、そしてそれに応答すべく奔走する「企業」に重心が傾いていて、超資本主義と堕している現代の政治経済を改善すべく、「市民」の意識を高めて、資本主義と民主主義のバランスを取り戻そうという話。かといって、別に左がかった主張でもない。

著者が指摘するように、実は一人ひとりのなかにたとえば、より安くより良い商品やサービスを求める消費者のマインドと、公平さと公正さを求める市民のマインドが同居している。そうして、みんな胸に手を当てて考えてみたらいいが、大抵の場合、前者の気持ちが勝ってしまう。その高まる一方の欲求が、企業を世界規模で際限のない競争に駆り立てている。今の不公平な世を嘆いたとしても、それは自分自身が招いたものともいえるのだ。

卑近な例でいうと、地元の商店街が寂れていくのを嘆きながら、週末には平然と遠くのショッピングモールに車で買い物に行ったりする。矛盾しているなあと感じることは多々あるし、そんなときはちょっと罪悪感を感じたりするが、行動パターンは変わらない。消費者としてはごく当然のことをしているからである。つまり、それだけ市民の側のモチベーションを自分のなかで高く維持するのは難しい。

著者は最終的に、企業献金や法人に対する税制のあり方など政策面での話をしつつ、一人ひとりの心にも厳然と存在する超資本主義を乗り越えよう、と静かに訴えている。

平易な英語で書かれているので、興味のある方はぜひご一読を。

さて、昨晩は不思議な感覚に包まれて、突然、『草の葉』を読みたいと思った。そして、次の詩を読んだとき、僕はホイットマンに導かれたような気がした。

「今いのちに満ち溢れて」

今いのちに満ち溢れて、引き締まった現身(うつしみ)の姿でいる、
合州国紀元八三年に生きる四〇歳のぼく、
今より一世紀のち、あるいは幾世紀かを経たのちの世の人に、
まだ生れこぬ君に、君の姿を探し求めつつこれらの歌を。


君がこれらの歌を読むときかつて現身だったぼくはすでに見えぬ姿となり果てている、
こんどは君だ、引き締まった現身で、ぼくの姿を探し求め、僕の詩を成就するのは、
もしもぼくが君といっしょで君の僚友になることができたらどんなに幸福かと思うだろうが、
構わずぼくもいっしょだということにすればいい。(信じすぎてもらっても困るが、今ぼくは君といっしょだ)


『草の葉・上』(岩波文庫、pp. 335-6)

布団のなかで、僕は詩の魂ともいうべきものによって震えていた。そうだ、ホイットマンの力強く快活で人間味あふれる精神を体現するのだ、「ぼくの詩を成就」するのだ。

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