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2008年12月31日

今年最後にひとことだけ

すでにお節の食材を食いつくした感のある大晦日。

12月後半はキツキツだったので、今日こんなにゆっくりできているのが不思議な感じがする。

この一年を振り返ると、とても感慨深い。ここにはほとんど書かなかったが、とくに上半期はとても精神的に辛い日々だった。その苦闘のなかで、どんなときも晴々として揺るがない強い魂を掴みかけるところまで来たような気がする。あくまでもその入口に立っただけだが。陰に陽に手を差し伸べてくれた方々の顔が浮かび、今日は感謝の気持ちでいっぱいだ。

来年は人生の大きな飛躍の年になるような予感がする。どんなことがあっても、どんな事態になっても、不動の人間になろう。「天晴れぬれば地明らかなり」。心を鍛えるのみ。あとは自ずと付いてくる。

みなさま良いお年を。

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2008年12月21日

ブッシュの時代について来年は考えたい

おいしいものを食べ、温泉に浸かり、楽しい時間もあった週末。しかし、個人的な楽しみなどどうでもいいとも思える週末。

ブッシュ政権が終わるのを機に、8年間のブッシュの時代とは一体なんだったのか、来年は考えたいと思う。インサイダーによるドキュメンタリー的な物語は、それはそれで興味はあるが、もっと大きな視点でこの時代を自分なりに考えてみたい。

そういうことを思い描いていたら、なんとなく、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』に立ち返ってみたいと思った。この本に批判が多いのは百も承知で。読み始めてしばらくしたら、原書 The End of History and the Last Man を持っていることを思い出したので、本棚から引っ張り出してきて、両方読んでいる。

それから、なかなか進んでいなかったグリーンスパンの The Age of Turbulence を、今日は60ページほど読んで11章まで終わった。時系列に綴った回顧録の部分はこれで終わりで、あとは経済の理論や実態に対する見解となる。ちなみに、11章でのブッシュ政権に対する語り口は厳しい。ブッシュ・シニアの時代についてもあまりよくは書いていない。その間のクリントン時代が明るい時代として描かれているのとは落差が大きい。

散々非難してきた日本のゼロ金利政策と同じ道を、今アメリカはたどり始めた。9・11で明けたブッシュの時代は、戦争に明け暮れ、最後はアメリカ発の世界的で大規模な金融・経済の混乱とともに黄昏を迎えている。その日暮れがまったく美しくないことは、あのイラク人記者の靴投げが如実に物語っている。今、賞賛すべきものがあるとしたら、大統領の反射神経の良さしかない。

さて、今の派遣社員の首切り問題を見ていると、まさに企業の考え方が supercapitalism だなと思う。大企業は莫大な内部留保やキャッシュがあるのに、一方で解雇をどんどん進めるのである。政府の雇用対策が功を奏すれば、まだまだ日本の資本主義と民主主義のバランスは健全といえるだろうが、企業側はきっと「努力します」で終わりなんだろうと思う。

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2008年12月17日

あるがままそこに

今朝は一面霜が降りていて、田んぼや地面が薄化粧していた。空も霞んでいる。

ウォーキングの途中で、川まで下りてみた。田舎の淋しい風景がとても美しく見えて、しばし立ちつくした。僕は全体の一部であり、また全体は僕の中にあり。携帯にて。

Winter_morning

先週末、宇宙飛行士の毛利衛さんの講演を聴きに行った。宇宙へ出て、地球は「まほろば」であると思った、と述べられていた。英語に訳しにくいので、NASAでもそのまま "mahoroba" という単語で、みんなに語っていたという。この音の響きの良さは、日本語を母語とする僕たちにしか掴めない微妙なものだと思う。

「神を感じたか」という問いに対し、そうは思わなかったと。「宇宙はあるがままそこに存在しているんだと感じた」という毛利さんの答えは、率直な感想なのだろうが、とてつもなく哲学的深みがある。今週は時折、その言葉を思い出しながら、宇宙の闇に浮かぶ地球を脳裏に描いている。

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2008年12月12日

朝ぼらけに歩く

いまごろの九州の朝は、夜が明けるのがひときわ遅い。朝ぼらけのひんやりとして澄んだ空気のもとウォーキングをするのは、すこぶる気持ちのいいものだ。ここ数日は深く霧が立ち込めている。ほんの何十メートルか先もはっきりしないなか歩いていると、どこか異次元へ吸い込まれていくような妙な気分になる。

朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木 (百人一首、64番)

古来、宇治川の冬といえば、川霧と琵琶湖から下ってくる氷魚(アユの稚魚)を捕獲する網代木が有名だったらしい。道長も眺めていたのであろうか。源氏物語の世界が広がる宇治は、一度ゆっくり訪れてみたい。

今週中に終わらせたいことがあったのだが、昨晩山を越えて、今日は少しスローダウンして作業をしている。疲れて重かった体が、今日は急に軽くなった気がする。そんななか、今週の楽しみといえば、たくさん届いたエビスビールを毎晩1缶ずつ飲むぐらいだった。珍しく何日も続けてお酒を飲んだ。

食材はあいかわらずいろんなところから頂く。最近は大根が多い。雲仙のじゃがいもが1箱届き、鮭も1匹送られてきたので、石狩鍋をした。冬はやっぱり鍋ものがいい。ねぎなども大量にあったので、鶏肉で水炊きもした。今日は解体したばかりの牛肉を1キロもらったので、余っていたじゃがいも(じゃがバターもしたがまだ余った)で肉じゃが。にんじんはじゃがいもより小さめの乱切りにしてよね、とうるさいことを言っていたら、自分が食材を切る羽目になってしまった。トホホ。

とはいっても、あんまりグツグツ煮たやつばかり食べていると、ビタミン類が壊れたりして、あまり体には良くない。最終的には、朝食べる生の果物と野菜がいちばんおいしいし、健康的だ。そして、起きてすぐ飲む水。これらにバゲットがあれば、もうそれで十分に幸せな気分になる。

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2008年12月 8日

人生はこれから

土曜日、北九州でB型肝炎に関する講座を聴きに行った。C型ばかりが注目されているが、潜在的にB型も150万人ぐらいいるといわれ、実際、身近にもキャリアがいるので、最近気になっている。

会場の大きさのわりに参加者が少なく、ちょっと寂しい感じ。勉強にはなったけど。

終了後、小倉駅の南側に広がるアーケード街を散策。博多とはまるで違う街の雰囲気。労働者の街だったんだなというのが伝わってくる。

夕方、小倉城を見に行く。中に入る時間がなかったので、写真だけ撮った。

Kokura_castle1

Kokura_castle2

というのも、小倉城へ来たのは、すぐ横の「松本清張記念館」へ行きたかったから。閉館まで50分しかなかったのでじっくりと見られなかったが、展示内容は充実していて、価値ある500円だった。

作家の直筆にはいつも興味をそそられるのだが、松本清張の字は作家らしからぬ美しいものだ。知らなかったが、遅咲きの42歳でデビューをして、それから40年作家として活動した。それ考えたら、人生これからですばい。

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2008年12月 4日

今いのちに満ち溢れて

Supercapitalism を読了。本文は200頁ちょっとと薄かったので、ゴールはそう遠くなかった。

Supercapitalism

データや具体例に誤りが多い、という批判もあるが、現代の政治経済構造の本質に迫る議論は十分に読みごたえがある。

要は、「消費者」や「投資家」、そしてそれに応答すべく奔走する「企業」に重心が傾いていて、超資本主義と堕している現代の政治経済を改善すべく、「市民」の意識を高めて、資本主義と民主主義のバランスを取り戻そうという話。かといって、別に左がかった主張でもない。

著者が指摘するように、実は一人ひとりのなかにたとえば、より安くより良い商品やサービスを求める消費者のマインドと、公平さと公正さを求める市民のマインドが同居している。そうして、みんな胸に手を当てて考えてみたらいいが、大抵の場合、前者の気持ちが勝ってしまう。その高まる一方の欲求が、企業を世界規模で際限のない競争に駆り立てている。今の不公平な世を嘆いたとしても、それは自分自身が招いたものともいえるのだ。

卑近な例でいうと、地元の商店街が寂れていくのを嘆きながら、週末には平然と遠くのショッピングモールに車で買い物に行ったりする。矛盾しているなあと感じることは多々あるし、そんなときはちょっと罪悪感を感じたりするが、行動パターンは変わらない。消費者としてはごく当然のことをしているからである。つまり、それだけ市民の側のモチベーションを自分のなかで高く維持するのは難しい。

著者は最終的に、企業献金や法人に対する税制のあり方など政策面での話をしつつ、一人ひとりの心にも厳然と存在する超資本主義を乗り越えよう、と静かに訴えている。

平易な英語で書かれているので、興味のある方はぜひご一読を。

さて、昨晩は不思議な感覚に包まれて、突然、『草の葉』を読みたいと思った。そして、次の詩を読んだとき、僕はホイットマンに導かれたような気がした。

「今いのちに満ち溢れて」

今いのちに満ち溢れて、引き締まった現身(うつしみ)の姿でいる、
合州国紀元八三年に生きる四〇歳のぼく、
今より一世紀のち、あるいは幾世紀かを経たのちの世の人に、
まだ生れこぬ君に、君の姿を探し求めつつこれらの歌を。


君がこれらの歌を読むときかつて現身だったぼくはすでに見えぬ姿となり果てている、
こんどは君だ、引き締まった現身で、ぼくの姿を探し求め、僕の詩を成就するのは、
もしもぼくが君といっしょで君の僚友になることができたらどんなに幸福かと思うだろうが、
構わずぼくもいっしょだということにすればいい。(信じすぎてもらっても困るが、今ぼくは君といっしょだ)


『草の葉・上』(岩波文庫、pp. 335-6)

布団のなかで、僕は詩の魂ともいうべきものによって震えていた。そうだ、ホイットマンの力強く快活で人間味あふれる精神を体現するのだ、「ぼくの詩を成就」するのだ。

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