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2008年11月25日

母語のまさに母なるものを感じたい

『太陽と鉄』で書かれていることが本当なら、三島由紀夫は最終的に「肉体の言葉」を追い求めてからだを鍛えた。その言葉は果たして彼の耳に聞こえたのであろうか?

違う意味ではあるが、『源氏物語』を読みながら、日本語を聞き喋る者として、何か自分のなかで呼び覚まされるもの(=言葉?、リズム?、音?)があるのではないだろうか、と考えている。時代が違うのだから、そんなものあるわけないだろう、と人には一蹴されそうだが、母語のまさに母なるものを感じられないだろうか、と淡い期待をしたりする。

英語を読んでいるときの私は、ではいったいどういう姿勢で、その言葉に対峙しているのだろうか? また、方言より標準語のほうが楽だという私の口語のありようは、どう片を付けていったらいいのだろう? なんだか自分のなかの言葉がすべて中途半端な気がする。

小林秀雄の肉声CDを聴き直す。ゴッホは自らの個性と戦って普遍へ至ろうとした、という話はゾクゾクした。個性は大事にするものではない。その限界と戦っていかねばならない。だから個性が強ければ強いほど、それは激しい戦いになる。

Robert B. Reich, Supercapitalism (New York: Vintage Books, 2008, originally published by Alfred A. Knopf, 2007, 日本語版『暴走する資本主義』) の第1章を読む。時間があったらずっと読んでいたいぐらい内容は面白い。

禅寺と銀杏

禅寺と銀杏

車で通りがかりに、銀杏の黄色が目に飛び込んできたので、降りて携帯でパシャ。あれ、写真に撮るとそんなきれいじゃないなあ。力不足なり。古い歴史がある禅寺です。

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