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2008年10月12日

源氏を読む

「もののあはれ」は『源氏物語』を原文で読んでみないとわからないのではないか、といって原文読破を試みている知人がいる。僕も触発されて、先週から、原文と、それだけでは容易に理解できないので、章が終わるごとに谷崎潤一郎訳(新々訳)とを読んでいる。「桐壷」、「帚木」、「空蝉」が終わり、今は「夕顔」。

源氏物語

今まで、谷崎と与謝野晶子と円地文子訳を読んだことがあるが、ここ十数年は読んだことがなかったし、原文をまともに読むのは初めてなので、話が進むごとに面白さを感じている。

平安時代から1000年の時を越えて、いかに日本語というものが変化しているか、そのことにあらためて新鮮な感動を覚える。日本語の古典よりも英語を読むほうがはるかに楽なくらい、同じ言語といってもかけ離れた言葉なのである。

しかし、谷崎の次のような但し書きには、現代にも通じる日本語のひとつの魅力を感じる。こう書いている。

この物語の中の和歌は、それが挿入してある前後の文章とのつながりが非常に微妙にできているので、そのつづき具合の面白さを味わうことが、和歌の内容を理解するのと同等に大切なのであって、(中略)これらの和歌の価値の一半がその調子にあることを念頭に置き、時として意味が分らないことがあっても、調子の美しさが感じられさえすれば、その場は一応それでよいとして、先へ進んでもらいたい。

日本語は繊細だなと思う。

加えて、ああいう男と女の世界が当然のこととして存在していた事実に羨ましさとともに愕然とする。その点でも、現代とはまるで異次元の世界である。しかし、有名な「雨夜の品定め」などを読んでいると、今の男も集まれば同じようなバカ話をするよなと思う。

果たして「もののあはれ」がわかるかどうかはわからないが、ぼちぼちと読み進めたい。

下の写真は、まったりとした土曜の午後、ひっそりと窓にへばりつくカエル。笑えたので一枚撮っておいた。

窓にへばりつくカエル

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