« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »

2008年4月30日

じっとしているやつとクネクネ動き回っているやつと

庭を眺めながら考えごとをしていたら、松の枝になにやら光沢のある緑色の物体を発見。

もしやと思って近づいてみると、案の定小さなカエルが一匹、間抜けな顔をしてちょこんと入り組んだ細い枝に乗っかっていた。

君たちはみんな、案外と木の上が好きだねえ。

間近で覗き込みながらそう声をかけてみた。もちろん黙殺。

まあそうやって何時間でもそこでじっとしていたまえ。とても人間様には真似はできぬ。

今年も、これからしばらくは、こうやってかわいいカエルたちがどこかの木の枝で優雅に固まっているのを見ることになるだろう。

ふふっと笑みがこぼれた瞬間、下のほうでガサガサという嫌な音がした。こちらはもしやヘビ? 全身が凍りつき、下へ目をやると、15センチくらいのトカゲだった。ふぅー、なんだ、焦ったじゃないか。

捕まえてやろうかと思ったが、彼には彼の意味があって、クネクネしているのだから、邪魔はするまいとやめた。

まあ頑張りたまえ。

お前もな、と言われそう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月29日

頭からしっぽまで食べ尽くす

ふとんに入って見ているので、いつもは途中で寝てしまう夜中のプレミアリーグの番組だが、昨晩のマンチェスター・ユナイテッド対チェルシーの試合は、ハラハラしながら結局最後まで見てしまった。

チェルシーが勝ってひと安心。でも、ベッカムがいた頃(右からクロスを上げるというパターン)と比べたら、今のマンUは見ていて面白いなあ。

無造作に箱に入れられた小アジの干物がたくさん届いて、ここ2、3日で10枚近く食べた。冷凍してしまうと味が落ちるので、早めに食べてしまうことにしたのだ。

スーパーで売ってるやつとは明らかに違う。うますぎて、頭からしっぽまで全部残らず食べ尽くす。みんなが頭や骨を残しているのを見て、なんてもったいないことをするんだ、と思いつつ、たとえ家族とはいえ、人の皿から食べ残しを奪うのは下品だろうと手を出さなかった。

ふだんから、ししゃもとか小エビとか小さいものは丸ごと食べるほうで、鯛かぶとなどでもまず目の周りから食べる。自分ではしごく当たり前のことをしているつもりだが、他人様からたまに怪訝な顔で見られることがある。どうして? おいしいのになあ。

アメリカへ2ヶ月行ってた知り合いの方が帰ってきて、お土産と写真を持って来られた。帰りはビジネスからアップグレードしてファーストクラスを体験してきたという。向こうの話より、その体験談のほうが面白かった。

でも、2ヶ月なんてあっという間だなあ。そういえば、明日で1年の3分の1終わりだもんなあ。やれやれ、こうしてみるみるうちに人生は終わりを迎えるのだ。走れ! でも苦しむな! 楽しんで走れ!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年4月28日

追われる日々に憐れみの言葉を

漱石は「現代日本の開化」のなかで、興味深いことを言っている。

開化が進めば生活が楽になるかどうか、という問いを立てて、次のように言う。

打ち明けて申せば御互の生活は甚だ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだという自覚が御互にある。否開化が進めば進むほど競争が益(ますます)激しくなって生活はいよいよ困難になるような気がする。(『漱石文明論集』、22頁)

時代は違えど、今の私たちの生活に照らして、この言葉に深くうなずく人は多かろう。社会に出ている人で、10年前よりゆっくり過ごせている、仕事の量が減った、いろんなことに追われていない、という人はまずいないと思う。

それがなぜかというのは語るべくもないことだが、パソコン、ソフトウェア、メール、ネット、携帯電話、こういったIT技術の爆発的な普及と進化により、ものごとを進めるのが格段に便利になり、あらゆることに対して時間の短縮が可能になり、そして明らかに僕らは忙しくなった。適当な言い訳のできる「間」が設けられなくなってしまった。

常に忙しく、常に連絡がついてしまう。休みの日に、思い切って携帯の電源を切って過ごすぐらいの勇気がなければ、オフの日であっても身の回りの人たちから追われてしまう(逆に、切ることで置いてけぼりをくう不安のほうが強い?)。そんな生活をしていては、それこそ神経衰弱になってしまうだろう。ずっと交感神経が高ぶっているような生活では、自律神経がいかれてしまうではないか。

かといって、この時代の流れに長く逆らって、実生活上で得することもない。では、どうしたらいいのだろうか? その答えを今持ち合わせているわけではないが、そういう問題意識を持ち続けていくしかない。

「俺はこんなものに振り回されてなんかいないぞ! 楽しんでいるんだ!」と自らに憐れみの言葉(?)を投げかけよう!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月27日

もう一段、加速

用事を兼ねて、大分までひとっ走り。一昨日のちょっとした宴会でワインを飲みすぎて、昨日はだるさが体から抜けず、明日は大丈夫かなと心配していたが、昨晩早く寝たら元気を取り戻した。

昨日はそれでもだるい体にむち打って、書類整理にいそしんだ。どんどん捨てて、デスクはスッカラカン。もうひとつ、別のところにデスクがあるので、そちらもやってしまわねば。

一昨日でとあることに区切りがついて、昨日から新たな気持ちで生活を始めた。相変わらず、ごちゃごちゃなことをしている毎日だが、自分が関わることで喜んでくれる人がひとり増えてくれるだけで、心の底から嬉しい気持ちになる。

これから9月の誕生日までは、もう一段ギアを入れて、加速して頑張ってみようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月26日

漱石のメッセージ

『漱石文明論集』(岩波文庫)を読んで感じること。

まず第一に、西洋というものに対峙して、漱石自身がいかに悩み苦しんだかということ。漱石=神経衰弱だが、たぶんにそれは西洋や西洋化と関係したはずである。

当時の西洋化の波が日本国や日本人一人ひとりに与えたインパクトは、おそらく現代人には想像のつかないぐらいの規模であったに違いない。そのなかで、一方で西洋を代表し、他方で西洋に立ち向かったこの知識人の悲劇はいかばかりであったろう。

次に、確固たる「個」の独立を叫んでいること。ふらふらと根なし草のように西洋化や文明、イズムというものに振り回されるのではなく、「人間とは何か」ということを追求すべきであることを教えている。

これは「私の個人主義」だけの主題ではなく、「現代日本の開化」や「中味と形式」「模倣と独立」などでも見出すことができる。どれだけ世の中が変わろうとも、結局は一人ひとりがいかにこの人生を生きていくべきか、ということに行き着かざるを得ないことを考えるとき、彼のメッセージは現代人にとってもまったく色褪せてはいないことに深い感動を覚える。

第三に、人間を見つめる目が大らかであり、また彼自身に尊大なところが何もないこと。これもやはり、「個」を真摯に追求していった姿勢のなかで、自ずと附随してきたものであろうと思う。

このことは、以前にも書いた(コミュニケーションに余韻がないこと)。

ますます人間臭さが生活のなかから取り払われつつある今、漱石の言葉は私たちに光を放って迫ってくる。

マンデリンの本棚

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月24日

もっと捨ててみるか

朝、県のとある機関に出向き、滞っている案件の話し合いをした。とても前向きに協議ができ、こちらの無茶な条件ものんでくれた。

その後、待ち合わせをしていた人たちと、大名の和食のお店でちょっとした食事会。昼間っから酒を飲むと疲れるなあ。辺りの小さなお店をブラブラして、喫茶店でちょっと寝てしまった。

丸善で、『佐藤可士和の超整理術』を数十ページ立ち読み。なるほど、と思うこと多く、面白かったが、買うまでには至らなかった。ちなみに僕も整理するのが好きで、どんどん「捨てる」ほう。さらにそれを激しくしてみようかと思った。

洋書はオバマ関係の本が売れているようだ。ノミネートされたら読もうと思う。

『漱石文明論集』(岩波文庫)所収の講演を読み返す。漱石先生には実に深みがある。現代の日本人にも十分意味のある警告と指針を述べている。明日にでもそのことは書こうと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月23日

ネットの時代とアダム・スミス

『ウェブ時代をゆく』を読んでから、気になって、もう一度 Thomas L. Friedman "The World is Flat" を読み返している。

でも、今日は朝っぱらからセミナーで話をして、その後もずっと追われていたので、まだ1ページも進めていない。

現代世界がネットやソフトウェアなどの発達によってフラットになったということに、フリードマンは興奮するとともに不安も感じている。アルカイーダのような怒りや不満をもった勢力にもものすごい力を与えることになると。

聖火リレーをめぐってメールや掲示板などを通じて行われている、カルフールの不買運動や世界中の中国人留学生などの動きを見ていると、基本的に「個」を empower する道具であるはずのコンピュータやネットが、国民や民族といった「集団」の結集と暴発に極めて便利な手段であることも教えてくれる。

しかし、ネットの時代のさらに大きな要素は、そういう動きのいちいちが、やはり白日の下にさらされて、全世界に知られてしまうということだろう。だから、やがて、落ち着くところに落ち着いていくように修正されていくのだろうと思う。ふつうの市民の活動である限り。

ネットを中心とした世の中の動きというのは、アダム・スミスの「神の見えざる手」にどこか似ているのかもしれないと、ふと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月22日

どこの国もわがままは許されない

チベットの騒動に対して、西側諸国が北京オリンピックのボイコットにまで行かないのは、結局は経済的な理由だろうか。

冷戦の頃と比べたら、人智が少しは発達したともいえるが、グローバリゼーションのこのご時勢、巨大な中国を敵に回せないということではないだろうか。冷戦時は、西は西、東は東で基本的な経済圏が出来上がっていたわけだから、対決姿勢を露わにしても経済的なロスがさほどなかった。でも今は違う。

このままいけば、近い将来スーパーパワーになる中国は、とんでもない要求と解釈で世界に迫ってきそうだが、よく考えたら、グローバリゼーションはどこの国にもわがままは許さないようになるのかもしれない。

今年の年頭のインタビューで、キッシンジャーが語っていた言葉を思い出す。ロシアの復権とプーチンのもとでの強硬なエネルギー外交を心配する意見に対して、「冷戦のときのような覇権を求めてはいない。究極的に、ロシアは他国にモノを買ってもらわなければいけないのだから、相手のことを考えざるを得ない」というような趣旨の答えをした。

中国も同じだと思う。政治的に世界の理解を得られない行動を続けた場合、結果として起こるのは経済的な崩壊だろう。専門家からは、そんな単純に政治と世界経済を結びつけるな、と批判されそうだが、フラット化している世界とは、一面ではそういう意味もあるのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月21日

移住リスク:肌の色と紫外線

ビデオに録っておいたNHKスペシャル『病気の起源』の第2回を見ていて、我が意を得たりという気持ちになった。

イギリスへ行ってからの持論のひとつが、「自分の民族が長く生存してきた地域から、あまり遠くに移住すべきではない」ということ。

イギリスでは、オーストラリアへ移住した白人たちが皮膚がんに悩まされている模様をよく見聞きしていたので、それ以来、肌の色と日光の関係が気になっている。肌の色がメラニンの多少によるものであり、そのメラニンは紫外線の強さに関係しているのだから、白人はさんさんと太陽の光が降り注ぐパラダイスへは移住してはいけないのだ、と思い続けてきた。その考えを広げると、上のような考えになるわけです。

番組では、アフリカを出たヒトが紫外線に合わせて肌の色を変えて進化してきたことが描かれ、肌を白くして欧州大陸へヒトが移住していくのにいかに困難があったかが指摘されていた。

オーストラリアの皮膚がんの深刻さだけではなく、逆のことも紹介されていた。それはイギリスへ渡ったインド人夫婦の子どものこと。褐色のインド人の皮膚は紫外線を通しにくいため、インドと比べて明らかに弱い日光しか届かないイギリスにおいては、紫外線の力を借りて体内で生成されるビタミンDが欠乏し、結果として骨の組成が遅れたり不十分であるという。番組の例では、子どもに歯が生えてこないので、VDの薬(副作用が強いらしい)を経口投与しているとのことだった。白人の移住に対して意識はあったものの、そこらじゅうにいるインド出身者を眺めながら、そういうことに思いを馳せたことは、イギリス滞在中一度もなかった。

イヌイットが褐色なのにグリーンランドで生きていけるのは、アザラシなどの肉の中にVDが豊富に含まれているからだった。それが、欧米食に食生活が変化するなかで、VD欠乏症が始まった。こちらは伝統食の重要性を明らかにしている。

これらの問題の多くは薬などで対処可能かもしれないが、できる限りその人その民族の自然に即した生き方をしなければならないと思う。幸いネットの時代は地理的な重要性が限りなく低くなっているのだから(どこにいてもある程度同質のことができる)、あまり動かないほうがいいかも? その気になれば、短・中期で旅行できるのだし。

ところで、「お前はヨーロッパへ行きたいのではなかったか?」と問われそうだが、僕は色が白いので、どちらかというと向こうが合っている気がする。強引な結びつけ?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月20日

総表現社会に参加する一人として

『ウェブ時代をゆく』

梅田望夫『ウェブ時代をゆく―いかに働き、いかに学ぶか』(ちくま新書)を今読み終えたばかりだ。『ウェブ進化論』がいろんなところで推薦されていたのでそのうち読もうと思いつつ、時は過ぎてしまい、こちらを先に手にした。

今、心も体もソワソワしている。読後に、なんとも形容しがたい興奮を覚えたのは久しぶりだ。

ひっそりとブログを書いたり、いろいろとウェブで専門的な調べものをしたり、少しばかりウェブを使った仕事をしたり、新しいネットのサービスを試したりしながら、漠然と考えていた今という時代の有りよう、そしてこれからどんな世界になっていくのだろうか、そこで自分はどう処していけばいいのかということに対して、ある程度整理できたような気がする。むろん、この巨大な変化の真っ只中にあっては、「今の時点では」という条件付きの納得だが。

このブログの前に1年間別のブログをやっていて、その時書きながら感じていたことを、このブログを始めたばかりのときに書いた。題して、「ブロガーは精神の露出狂」。それは梅田さんが言う「第三層」、つまりエリートと大衆の間にあって、この総表現社会に参加している層のことにつながるのだと思う。

この第三層のパワーが、既存の権力構造を本当に突き抜けて「人類の善性」へ向かうとしたら、これは長生きして、その大きなうねりを見届けたいし、自分もそこへ本気になって飛び込もうという気になった。

前のブログを続ける気が失せたのは、その頃の気分を反映して、あることに対する批判的な内容が多くを占めていたからだ。そんなことにエネルギーを費やしていることに嫌気が差してきたのは、「善」や「美」、「喜び」といったポジティブなものを表現したいという志向性が強くなってきたからだった。

著者はあとがきの中でこう述べている。「モノを書く意義は、それを読んだ人の心に何が生じたかに尽きる、と私は思う」と(242頁)。最近また忘れかけていた大切な指針を思い出させてもらった。

これからの時代の生き方を模索している人たちに対して、『ウェブ時代をゆく』は大まかに道筋を照らしてくれている。しかし、そのまだぼんやりとした霧がかった道をしっかりと走るには、著者が言うように、「自発的で能動的な「新しい強さ」」が必要である。

マンデリンの本棚

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月19日

ブクログに登録

最近知った「ブクログ」に登録してみた。バーチャルな本棚。

マンデリンの本棚

図書館で借りて読んだり、読んで古本に出してしまうものとか、部屋の奥深くに眠ってしまったまま忘れ去られてしまうものがあるので、こういうのは読書の記憶を整理しておくのにとても便利だと思う。

昨日の『乳と卵』から始めて、読んだ本を1冊ずつアップしていこうと考えている。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年4月18日

『乳と卵』―文体に惹き込まれて

乳と卵

読もう、読もうと思っていた川上未映子さんの芥川賞受賞作『乳と卵』(文藝春秋)を今晩一気に読んだ。といっても、「一気に」というほど長いものでもないので、数時間の間に実は2回読んだ。

太宰が嫌いな理由の第一に「顔が嫌いだ」と驚くべき笑えることを挙げた三島にならって言えば、川上未映子の顔が、というか今の髪型がかもし出す顔の雰囲気が気に入ったので、これを読もうと思った。「川上未映子」という名前も、「柄谷行人」くらいにイイ、僕のなかでは。どこが?、と聞かれても答えるのは難しいが。ちなみに、この表紙デザインも古風な感じで好き。この辺も樋口一葉を意識してのことか?

芥川賞の選評は毎回興味深く読んでいるが、いつも辛口の石原慎太郎は今回はいやまして酷評で、「この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい」と豪語していた。僕は、ろくに小説を書いていない彼がなぜ長いこと選考委員をしているのか首を傾げるのだが、ともあれ『乳と卵』は彼が言うような酷い小説ではない。

もう一度、三島にならって言うと(というか、実際僕のなかにはそういう判断基準があるのだが)、文体が気に入ったので、読了する気になった。彼女の文体は面白くて、一文がひとつのモードで貫かれてないところが多く、それが不思議なリズムになっている。読点でつながれて長ったらしくても、きれいに流れている。

たとえば、こんな調子。

巻子はわたしの左側に立って、緑子はわたしの右側に立って、椅子は全部埋まってあって、電車がゆるやかに揺れるたびに並んでる人の肩が同じように揺れ、今日は徹底的な夏の日であります。(23頁)

「乳」はきっと「父」と交差しているし、「卵」は「卵子」でもあるし最後のほうで出てくる「生卵」にも係っている。母娘がふたりして卵を頭に叩きつけるという動作、そしてわめき叫ぶ言葉に、きっといろんな意味が含まれているのだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月17日

ブログをいじる一回性

生命の永遠性について真剣に考えていたら、日常の出来事はどうでもいい夢の中の戯れに思えてきて、ブログを書くことにも情熱が失せていた。

しかし、ニーチェの言ではないけども、同時にこの生は絶対的に一回性のものであり、その充実のためには、さらに細かな日常の一回性が大事になってくる。一回性のこの人生を深く生きなければ、永遠に対して今世はなんら価値をもたらさないはずだ。

と書くと、まるで哲学的な思索にふけていたみたいだが、本音をいうと、リンク先のルキノさんが久しぶりにブログをアップしていたので、なんとなくこちらも書こうと思っただけ。

兄の仕事関係のウェブサイトを、JUGEMの「JUGEMプラス」という独自ドメインが使えるブログサービスを使って、ここ数日作っていた。

プレインタイプのテンプレートをいじって、ある程度使い勝手のいいものを作ったつもりだが、いろいろと制限はある。当たり前のことだが、Movable Typeで作るほうが自由度はやはり高い。1枚の中ですべてのページ(メイン、カテゴリ、アーカイブ、個別)のHTMLを記述しなければならないのが、とてもややこしい。

これはこれで貴重な一回性の出来事、と思うべし。

今はロックを掛けているが、ある程度エントリを揃えたところで公開する予定。

話は変わるが、後期高齢者医療制度の騒動を見てて思うこと。公的医療保険の根本的な問題は、あまりにも簡単に病院に頼ろうとする個々人の姿勢ではないだろうか。たとえば、風邪引いたり熱が出たりしたくらいで、診察してもらったり薬もらったりしちゃだめだよ。ふつう、風邪は3日もすれば自然に治るし、熱は意味があって出ているのだから無理にそれを抑えるべきではない(高熱の際は別だけど)。

国の医療費の増大が大問題なわけで、それを抑制するには、究極的にはみんなが健康になることだ。生活習慣を改め、食生活を見直し、姿勢を正し、安全な日用品を使っていけば、多くの人はもっと元気になると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月 9日

人生は常にチャレンジ

今晩は久しぶりに心が追われていない。

午後、来週からロンドンへ短期留学するおじ様のささやかな送別会をした。60を過ぎて初めて海外へ行くという、しかも留学でありホームステイであるという何重にもハードルを設けた旅で、いささか周りは心配している。まあ英語は達者だし、向こうにもネイティブの知り合いがいることだし、それに人生はいくつになってもチャレンジングよ、ということで落ち着きはしたが。

ソニープラザへ行ってお菓子やメモ帳を買って、丸善で医学関係の本をいくつかあさる。

昨晩はセミナーで、フィトケミカルのことをしゃべった。アントシアニンの話からフレンチパラドックスのことを紹介していたら、いつの間にかフランスのワイン村めぐりの話になって、途中でいったい何の話をしていたのか忘れてしまった。

カテキンやイソチオシアネート、β‐グルカン、肝臓の解毒(とくに第2相反応)や酸化LDLなどを取り上げた。

明日から数日は暇なので、いろんな作業と勉強をしようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年3月 | トップページ | 2008年5月 »