« 『腎臓病の話』 | トップページ | 鏡に映っているのは自分たちだ、『アメリカの鏡・日本』 »

2008年1月17日

哲学は死の練習

姉が定期的に書いている新聞記事の原稿は、出す前に必ず僕に見せてくれるので、一緒に最終チェックをしたうえで新聞社へ送る。いつもそのまま手直しなく載るのだが、今回はあるひとつの言葉が変えられていた。

それが納得のいくものならまだしも、どう考えても文脈にそぐわない単語だった。僕は姉が変えたんだと思って黙っていたが、姉から「あの部分、言葉変えてあったけど、おかしいと思わない?」と言われたので、担当の記者がやったのだと分かった。それからは、その変更についてふたりで非難しまくり。

「おかしいだろ、あの人の感覚?」「しょせん地方新聞の記者のレベルなんてそんなもんよ」などなど。いいガス抜きでした。

それとは無関係な話。昨晩、『ニーチェ全集1 古典ギリシアの精神』(ちくま学芸文庫)を読んでいたら、興奮してなかなか眠れなかった。「プラトン対話篇研究序説」というのを読んでいるのだが、若い頃の作品とはいえ、さすがに指摘は鋭くて、たくさん線を引いている。

ニーチェはこう書いている。

プラトンによれば、哲学はまさしく≪死の練習≫である。死がなければ、哲学の研究はほとんどなされないであろう。なによりも先に人間に生ずるのは、死の確実性である。これに対し、それを癒す手段は、あらゆる宗教および哲学の中核、形而上学的見解である。

僕はこういうことを書く人が好きだ。まさにそうだと思うから。

今週中に、この序説だけは読みたい。それから後は飛ばして、2巻の『悲劇の誕生』へと読み進む予定。今年はこの全集を読破するつもり。あくまでも、つもり。

|

« 『腎臓病の話』 | トップページ | 鏡に映っているのは自分たちだ、『アメリカの鏡・日本』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 哲学は死の練習:

« 『腎臓病の話』 | トップページ | 鏡に映っているのは自分たちだ、『アメリカの鏡・日本』 »