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2008年1月29日

ひそかにやっていた別の仕事

行くつもりのなかったサプリ関係のセミナーに、いろいろと搦め手から攻められてしまい、参加することになった。後ろで聞いていようと思ったら前に座る羽目になり、そんなことなら資料を持参したのにというぐらいいろいろ聞かれて困った。いちおう、ちゃんとした資格を持っているので、答えられないとまずいのだ。

アップダウンの激しい日々はまだ続いているが、どうにかなるさという思いで生きている。

ビジネスブログなどのネット上の広告戦略を中小零細企業向けに提供しようかなと思っていた時期があって、そのときの縁で今でも面倒を見ている会社がある。そこが、地味だけど思惑通りの展開になっていて、かなり新たな販売ができ感謝されている。特殊な専門機械ばかりなのだが、ねらいは異業種に売ることと利益率の高い中古機械を売ることだった。それが今のところバッチリ当たっているのだ。

元々、そこの機械を使う業界はずっと冷え込んでいて、倒産も相次いでいる。それで相談を受けたのがきっかけだが、僕は話を聞いていて、異業種で売れるんじゃないかと思った。また、どうにか生き残っていれば、ライバル企業が消えていく分、需要が増すと思った。実際にその通りになっていて、そこが持っているような機械を必死に全国規模で探している会社が、とくに異業種であったのだ。

来月には、東京から誰もが知る大手企業の系列研究所が機械を見せてほしいと来るらしい。それがうまくいけば、僕もひとつの自信になるなと思う。そんな話をしていたら、他の会社からも相談をされた。そこの業種は市場が大きく、かつニッチなところを攻めれそうなのと、製品の品質が高いものであることは間違いないので、力を貸そうかなと考えている。

そんなこんなで、またそっち方面でやる気を出していたら、「だったら自分の兄の事業をどうにかしろ」と言われ、そりゃあそうだと思い、そちらも知恵を振り絞ります!と宣言をしたところ。

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2008年1月24日

食物連鎖の皮肉

昨日New York Times 独自の調査として記事になっていたクロマグロのメチル水銀含有量の話は、日本でもニュースや新聞で取り上げられているようだ。僕は今日の NYTimes の社説を読んで、その元記事のことを知った。

High Mercury Levels Are Found in Tuna Sushi (元記事)

Tuna Troubles (社説)

ニューヨークの有名レストランやスーパーで出されているクロマグロのすしを検査してみたら、基準値を超えるメチル水銀が検出されたのだという。

まあこの手の話は今に始まったわけじゃないし、日本でも厚労省が、妊婦はクロマグロ(本マグロ)の消費を控えるようすでに警告している。

僕がちょっと興奮したのは、社説の最後のところに書かれていることが、僕がつくっている通信物の今月号に書いたことと同じだったことだ。

なぜマグロが危険かというと、食物連鎖で最後のほうに位置し、有害な重金属や化学物質(これらは脂質に溶け込む)が高濃度で蓄積しているからだが、そもそもの原因は人間が垂れ流す排水にある。そして、そのマグロを食べるのが、つまり食物連鎖の最後に位置するのが人間である。

人間が原因をつくり、それで人間が結果的に被害を被る、という皮肉。この悪循環を断つのは、ひとえに人間の行動にかかっている。水銀は工業排水が主な原因だろうが、家庭の排水にもいろんな有害物質が含まれている。自分たちが流している生活排水を考え直してみようと、僕は常々訴えている。

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2008年1月22日

世界観が一元化されてはつまらない

リンク先のブログで紹介されていたフランスのラジオ cherie FM を、ここ数日BGM代わりに流している。これでフランス語が分かるようになるとは思わないが、言葉の響きがなんとも心地よくて、けっこうものごとに集中できる。

先日サルコジ大統領が、英語放送をしている海外向けテレビ局「フランス24」を打ち切って、フランス語だけで放送する局を新たに立ち上げると表明した。「フランス24」はBBCやCNNのフランス版を目指して、1年ちょっと前に創設されたばかりだ。

「仏語話さぬTV打ち切れ」=大統領号令、関係者は困惑

採算が取れなくなると思うので、これを実施できるかどうかは分からないけど、英語一辺倒の世界にあって、こういう変なこと言う人がいてもいいんじゃないのかなあ。

ところで、最近の報道に、海外での日本語教育拠点を現在の10か所から100か所に増やすというのがあった。

日本語学習、海外に100拠点…外務省方針

しかし、同様のフランス語教育施設は、世界にすでに950か所もあるのだ。国連の公用語であったり、旧宗主国であったりと、日本語にはないフランス語の利点はあるだろう。それを考慮しても、日本の現状10という数字は少なすぎると思う。国を挙げて言語戦略を真剣に考えるのは、国力という点でとても意義のあることだと思う。

英語が共通語となればなるほど、僕は自国語や言語の多様性へのこだわりを保持していたほうがいいと思う。それは世界観の多様性につながる。英語の世界化に伴って、英語自体がもつ世界観も、きっとどんどん多様化してきているのだろうが、多様化への道筋を多くするという意味では前者だ。

そんなことはないだろうとは思うが、世界観が一元化されていくことだけは避けなければならない。そうじゃないと、この世界で生きていくのはおそろしくつまらないことになる。

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2008年1月20日

"Mirror for Americans: Japan"

My Vein

new post: "Mirror for Americans: Japan"

読後ちょっと興奮していたので、そのまま書きました。下の日本語と内容はあまり変わりませんが。

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鏡に映っているのは自分たちだ、『アメリカの鏡・日本』

一日中、霧雨が降る。まわりの山々が神々しいまでに煙っている。

ずっと前から知人に紹介されていたヘレン・ミアーズ著『アメリカの鏡・日本』(メディアファクトリー、1995)を読んだ。抄訳の新書はあるが、全訳本はどこにも売ってなくて、原書も絶版で手に入らなくて、もう忘れかけていた。それが、何気なく初めて行った地元の小さな図書館にあったのだ。

これほどまでに冷静で客観的に、日本が戦争へ向かわなければならなかった原因と、西洋列強なかんずくアメリカの欺瞞について語りつくした本を他に知らない。1948年という戦後すぐの時点で、当のアメリカ人がよくぞここまでものごとを澄んだ目で見られたものだと驚きと感動でいっぱいだった。400ページを超える本だったが、寝ずに一気に読んだ。

マッカーサーは、この翻訳本を日本で出版させなかった。もちろんである。西洋の「近代」「民主主義」「解放」、こういう聞こえのいい言葉がはらむ二面性、嘘、利己主義、そういった諸々の触れてほしくない西洋列強の後ろめたさを、この本は見事なまでに暴露しているのだから。

歴史に矛盾はつきものであり、強者の論理がまかり通るのが国際関係だ。アジアの近代はとくにそれを象徴している。読んでいて、悲しみさえ感じた。

先生である列強にとって、日本は「近代化」「西洋化」の最優秀の生徒であった。日本がアジアにおいておこなってきたことは全部、先生たちの教えどおりであった。しかし、それをやりすぎたがために懲罰を受けることになった。先生たちは同じことをやっていても何も咎められなかったのに。ミアーズは、この矛盾を事細かに指摘している。

日本の行為は西洋列強にとって「鏡」だった。そこに映っているのは、西洋そのものだ。そのことを冷静に見直さない限り、アメリカは間違いを続けるだけなのだ。そして、間違いを続けていることは、その後の歴史が物語っている。たとえ今この本を読んだとしても、アメリカ人もイギリス人も共感しようとはしないだろう。激怒するかもしれない。自分たちの非を認めたいとは、誰しも思わないものだ。もちろん、日本だって自分たちの戦前・戦中の行為を免責されるものではないが。

歴史を客観的に見つめなおすという作業は、きっと何世紀か経たあとでなければできないのだろうと思う。

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2008年1月17日

哲学は死の練習

姉が定期的に書いている新聞記事の原稿は、出す前に必ず僕に見せてくれるので、一緒に最終チェックをしたうえで新聞社へ送る。いつもそのまま手直しなく載るのだが、今回はあるひとつの言葉が変えられていた。

それが納得のいくものならまだしも、どう考えても文脈にそぐわない単語だった。僕は姉が変えたんだと思って黙っていたが、姉から「あの部分、言葉変えてあったけど、おかしいと思わない?」と言われたので、担当の記者がやったのだと分かった。それからは、その変更についてふたりで非難しまくり。

「おかしいだろ、あの人の感覚?」「しょせん地方新聞の記者のレベルなんてそんなもんよ」などなど。いいガス抜きでした。

それとは無関係な話。昨晩、『ニーチェ全集1 古典ギリシアの精神』(ちくま学芸文庫)を読んでいたら、興奮してなかなか眠れなかった。「プラトン対話篇研究序説」というのを読んでいるのだが、若い頃の作品とはいえ、さすがに指摘は鋭くて、たくさん線を引いている。

ニーチェはこう書いている。

プラトンによれば、哲学はまさしく≪死の練習≫である。死がなければ、哲学の研究はほとんどなされないであろう。なによりも先に人間に生ずるのは、死の確実性である。これに対し、それを癒す手段は、あらゆる宗教および哲学の中核、形而上学的見解である。

僕はこういうことを書く人が好きだ。まさにそうだと思うから。

今週中に、この序説だけは読みたい。それから後は飛ばして、2巻の『悲劇の誕生』へと読み進む予定。今年はこの全集を読破するつもり。あくまでも、つもり。

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2008年1月15日

『腎臓病の話』

身近な人たちのなかで、透析をしたり腎移植をしたり腎不全で亡くなったりという例があるので、昔から腎臓には関心がある。

最近、椎貝達夫著『腎臓病の話』(岩波新書)を読了した。

血液透析にかかる費用が総医療費の約4%も占めていることを知って驚いた。著者は、安易な透析の選択ではなく、食事療法を中心にした腎不全保存療法を推進している。クレアチニンクリアランスの数値がかなり下がったりしても、保存療法をきめ細かくやっていけば、少なくとも数年間、人によっては一生涯透析をしなくていい人がいるという。患者本人のためにも、国の医療費のためにも、そのほうがいいではないかという主張をしている。

人口100万人あたりの透析患者数は日本が世界一。背景には、腎移植の割合が欧米と比べて極端に低いことがある。腎不全が進行して、かつ移植の可能性が低いとなれば、透析をしようという話になる。一方、腎不全保存療法は病院側と患者本人双方のかなりの根気と努力が必要となるし、一回ごとの診療に時間が掛かるという問題がある。著者は、透析患者を減らしていくためには、現実的な方法として、保存療法の診療報酬を上げて、これに取り組む医療機関を増やすしかない、という。

今や糖尿病性腎症から透析に入る人が、全体の透析導入数の半数近くを占める。糖尿病患者は増加する一方であるから、ますます合併症で腎臓を患う人も増えるだろう。これを考えると、入り口という観点からは、一般レベルで食生活の見直しをすることが、長い目で見たら腎不全に陥る人を減らし、ひいては医療費の抑制にもつながるのではないかと思う。

腎機能が落ちてくると、それを遅らせることぐらいしかできないだけに、感染症からは別として、少なくとも糖尿病から腎不全という道をたどらないような生活をしなくてはいけないと思う。

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2008年1月11日

頭だけでも世界へ開放

最近、Financial Times のチェックを再開した。イギリスにいた頃、新聞のなかで僕がいちばん気に入っていたのはこの経済紙だった。他の quality paper の何か肩に力の入った内容と比べて、気持ちよく読めたのがいちばんの理由。FTを読まないといけないような立場ではもちろんなかったのだが。print edition は、他と比べて格段に見た目も美しかった。

今オンラインでチェックしているのは、このFTと New York Times のふたつ。メールで送られてくるヘッドラインなどに目を通して、気になった記事を読むようにしている。何本か届くメールをざあっと読むだけでかなりの情報量になる。

アメリカのサブプライム・ローンよりイギリスの住宅ローンのほうがより深刻であり、これからそれが表面化してくるという報道に何回か触れているが、今日のFTにもそれに関係するコラムがあった。10年間、順調な経済成長を財務相として支えてきたブラウン首相だが、これから数年間は厳しい状況も出てくるのかもしれない。

これらの新聞を読んだからといって、今の生活に影響はないし、ここには難しいテーマを語るべき相手もいない。でも、狭い空間に閉じこもっていたくないし、物理的に今は無理でも、せめて頭だけは世界に開放しておきたいと思うのである。

今年はそれでも、夏場にロンドンへ行く計画をしている。短期留学する知人がいるので、1週間ほど遊びに行こうと思う。地下鉄がべらぼうに高くなっているようだが。

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2008年1月 9日

新鮮だったらいいというものではない

昨晩の『プロフェッショナル』は、「すきやばし次郎」の小野二郎さんだった。この人のことを取り上げた番組を見るのは何回目だろう。最初に知ったのは、たしか山本益博さんが激賞していたからだった。もう何年も前から、一度は食べてみたいと思っている。

小野さんの息子さんが昔、どこかの番組でちらっと言っていた言葉が忘れられない。ネタは新鮮だったらいいということであれば、港のそばの寿司屋はどこでもおいしいということになるじゃないか、といった指摘。もっともである。新鮮だとそれだけでおいしいのは確かだろうが、魚によっては、もっと寝かせたり、一工夫したほうがよりいっそう味が良くなるものがあるのだろう。次郎さんのところでは、まぐろはたしか1週間以上寝かせるんだよなあ。

イギリスにいた頃、よく外国人に「寿司を作ってくれ」と言われた。ライスの上に魚のスライスをちょこんと乗せれば出来上がりだとでも思っているのだろうか、僕が毎度「寿司は家庭で作れるほど簡単じゃない。プロの職人しか無理なんだ」と言うと、どうも納得のいかない顔をする。それでも、手巻き寿司は何度かつくったけど。あれは、食べるときにちょっとした作業を各自しなきゃいけないから、みんな楽しいみたい。

見た目がシンプルで、でも非常に繊細な仕事を必要とするという意味で、寿司はいかにも日本的だと思う。そのなかでも、すきやばし次郎のような手当てをとことんやるところは、あんまりないんだろう。やっぱり一度は食べておきたい。

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2008年1月 7日

個人主義と寂しさ

夜明け前、外は霧がかかっていた。夜中は雨が降っていたようだ。冷気が漂う朝は凛として気持ちいい。川辺を歩きながら何度も、大きく息を吸い、そして吐いた。

庭では、寒椿が鮮やかな色で咲いていた。何ゆえに、こんな寒い季節に花を咲かせるのだろうか。冬の花の美しさは痛々しく、それだけに趣きがある。

漱石の「私の個人主義」を読み返す。自分の講演を聞くなんて「目黒のさんま」を味わうようなものだ、とおどけてみせるところが漱石らしい。果たして、学習院の学生から笑いは取れたのかしらん。

中身は、今でも学ぶことの多い内容だ。個人主義に伴うバランス感覚、彼の論に出てくるのは自分と他人、権利と義務、特権と責任、個人と国家という対立軸だが、どの関係を取ってもバランスよく思考し行動できる感覚を持っていなければ、真に個人主義とはならない。そして、この感覚を養うために倫理的な修練が大事である、とする。

突き詰めていくと、個人主義はストイックなものにならざるを得ないように思う。自由の放縦ではなく、国家主義のように大上段に構えるものでもなく、誰かと徒党を組むでもなく。漱石は、個人主義はときに寂しいものである、と言う。然り。イギリス人に流れている雰囲気がまさにそうではないか、と思った。陰鬱なロンドンの空を眺めながら、漱石ははっきりとイギリスの精神を掴んでいたのかもしれない。

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2008年1月 5日

ブットの功罪

お節料理は2日目にはもう厭きてしまって、すき焼きをしたり、キムチ鍋をしたりした。でも、今年はもち米が特別良かったのか、もちはかなりおいしくて、毎日食べている。

昨日の NYTimes の Op-Ed に、暗殺されたベナジル・ブットの生前の業績について厳しいことが書かれていた。

"Bhutto's Deadly Legacy" by William Dalrymple

亡命からの帰国直後であったし、選挙中のしかも暗殺という結末だったので、悲劇的な捉え方がされたり、民主化のアイコンのようになったりしているが、彼女が政権を担った時代の政策の非道さを冷静に考えよう、というトーンの内容。カシミールの問題を悪化させたことや、アルカイダにもつながる過激派を助長したこと、反対勢力の弾圧、人権の抑圧など。

成熟していない国家の指導者だったわけだから、きれいな話ばかりであるわけがない。特に、パキスタンの地政学的な観点から考えると仕方ないともいえる。アメリカなんか、この地域を翻弄し続けているんだから、別にブットだけが非難される筋合いではないだろう。しかし、この著者の言うのももっともで、目の前の感情だけでものごとを判断してはいけないのは確かだろうし、彼女の功罪を客観的に見つめようというのはうなづける。

どのみち、時間が経てば必ずそのような論調の歴史が書かれるのだろうが、この今のタイミングで、時の流れに反してグサッとくい込む論説が掲載できるなんて素晴らしい。社説から独立した論調が展開できる Op-Ed ならではかもしれないが、新聞の良さというのは、ひとつにはこういうふうに、新鮮な視点とそれに基づく考えを提供し、読者のさらなる思索と判断に寄与することだろうと思う。ネットによって情報が溢れるなか、新聞は情報のソースとしては陳腐な存在となりつつある。しかし、その情報をどう見るかということに関しては、記者たちの取材力や知力が生かされるのではないだろうか。

そういう意味で、日本の新聞は読み物として面白くない。僕はいつもその点が不満だ。

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2008年1月 3日

英語でブログ

英語でブログを始めました。URLは以下の通り。

My Vein (http://my-vein.blogspot.com/)

月に何回かは書きたいと思います。たいした英語力じゃないですが、日本語同様、書かないと向上はないので。

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2008年1月 1日

元日の胎動

明けましておめでとうございます。

毎年わが家では、元日零時から年を取ると決まっている。祈り、お屠蘇を頂き、お節を食べる。夜中にでたらめに食べるのは、一年でこの日しかない。昔は朝方までやっていたが、今は2時ぐらいでやめる。

3時過ぎて寝ようかなと思って、歯を磨きながらテレビをつけると、朝生をやっていた。面白くて、結局最後まで見てしまった。テレビを消しても、神経が高ぶって、なかなか寝つけなかった。

10時過ぎに起きる。さすがに食べる気はせず、分厚い元日号の新聞に目を通しながら、コーヒーを飲む。朝生の続きで、サブプライムや原油、小麦、年金、防衛省問題などが気になり、集中して読む。

来客がなかったので、ゆっくりまたみんなでお節を食べた。

プラトンの傑作『饗宴』をじっくりと読み、あれこれと考える。そのことはまた書こうと思うが、一年のスタートにぴったりの深い作品だった。

元日の雰囲気はいい。静謐だが、いたるところに胎動がある。すべてが明るく、心地よく、前へ向かっている。今日の晴れ晴れとした気持ちを、忘れないようにしたいと思う。

今年もどうぞよろしく。

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