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2007年5月20日

コミュニケーションに余韻がないこと

小山文雄『漱石先生からの手紙―寅彦・豊隆・三重吉』(岩波書店)を読む。一言でいうと、漱石の便りのなんと味わい深いことよ。小気味良い文章のなかに、相手を気づかう優しさが溢れている。江戸っ子らしい軽やかさも随所に見られる。

Koyama_book 僕の周りでは、やたら師弟、師弟と騒ぎ立てる人たちが多いけども、師匠が絶対神になってしまっている世界は、師弟ともに不幸だと思う。

漱石は偉く思われるのを徹底して嫌っている。たとえば鈴木三重吉に「三重吉さん。先生様はよそうじゃありませんか、もう少しぞんざいに手紙を御書きなさい。あれはあまり叮嚀過ぎる」(p. 169)と返事したり、小宮豊隆には「左程に僕を信仰してくれるのは難有(ありがた)いが君がそんな傾向を発達させると飛んでもない事になるよ」(p. 89)と書き送ったり。

誉めるところはきちんと誉め、叱るところはきちんと叱る。いろいろ世話も焼く。師弟ともに意見し批判しあう。木曜会という毎週木曜の門下たちの集いでは、漱石の前でみんなざっくばらんにしゃべっていたのだという。その座を想像するに、羨ましい限りである。

寺田寅彦は漱石の死後、こう綴っている。「夏目先生が亡くなられてからもう何処へも遊びに(純粋な意味で)行く処がなくなりました、小弟の二十才頃から今日迄の二十年間の生涯から夏目先生を引き去ったと考えると残ったものは木か石のような者になるように思います、不思議な事には私にとっては先生の文学はそれ程重要なものではなくて唯の先生其物が貴重なものでありました」。(p. 74)この回想のどこを切り取っても、美しい人間関係が浮かんでくるではないか。

さて、手紙ということであらためて思ったこと。

僕らは手紙という通信手段をほとんど放棄している。いつでもどこにいても、話したい相手と携帯でしゃべり、逐一メールを送る。インスタントでコンビニエントなだけに、そこには内容に漏れがあったり、時間差が発生することがない。つまり、コミュニケーションに「余韻」というものがない。手紙の良さは、その余韻が薄い便箋や一枚の葉書の上に満ち満ちていることだと思う。今僕らの人間関係が窮屈だとしたら、それはコミュニケーションに余韻がないこと、いい意味での「間」がないことが問題なのではないだろうか。

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