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2007年5月13日

たとえ百万の宇宙を前にしても

朝早く起きた。返さなければいけないビデオを見たり、今度会うまでに読んでおかなければいけない本を読んだり、見てくださいと頼まれた講演のDVDを見たり。追い立てられるのは好きではないが、そうでもしないとやらないことが多々ある。今日は、箇条書きにされた義務をひとつずつこなしていった感じ。

また『草の葉』から抜粋。僕の、思想というと大袈裟だけど、生命の力をぐんと高めたときの考え方はこんなものだと思う。わが意を得たりという感じで、とてもすんなりと受け入れられた(というとホイットマンに失礼だけど)。これはもうキリスト教じゃなくて、仏教なんじゃないかな。

ぼくは言った魂がからだ以上のものではないと、
ぼくは言ったからだが魂以上のものではないと、
そして何一つ、たとい相手が神であっても、自分にとって自分以上に偉大なものはなく、
しばらく歩いて共感の心の疼(うず)かぬ者は屍衣(しい)をまとっておのれの葬儀に出向いているにほかならず、
たとい懐に貨幣一枚持たなくとも君であれぼくであれ地球の精髄は買えるのであり、
たとい片目でちらりと眺め、たとい莢(さや)にはいった豆ひと粒を見せるだけでも、古今の知識はことごとく困惑し、
若者が励めば英雄になれぬような商売や職業は一つもなく、
宇宙を動かす車輪のために轂(こしき)になれぬほどひ弱なものは一つとてなく、
そしてどんな男や女にもぼくは言う、百万の宇宙を前にしても君の魂を泰然自若たらしめよと。

そして人類に向かってもぼくは言う、神のことなど詮索するなと、
個々のものについてなら詮索ずきのこのぼくも神のことなら呑気なもの、
(神のことや死のことでぼくがどんなに悟っているか、どれほど言葉を並べてみても言いつくせない)

あらゆる物象のなかに神が聞こえ神が見え、そのくせ神のことがかいもく分からず、
ぼく自身よりみごとなやつがいるなんてさっぱり分からず。

きょう以上に神を見たいなどとぼくがどうして望むものか、
二四時間がひとときも休まず、そのひとときが一瞬も途切れず、ぼくに神を垣間見させてくれている、
男や女の顔のなかにも、鏡にうつったぼくの顔にも神が見え、
神からの手紙だって巷のあちこちに落ちており、どの手紙にも神の署名がちゃんとある、
ぼくはそれらの手紙はそのままにしてその場を離れる、たといぼくがどこへ行こうと、
別の手紙があとからあとからきちんと届くことがぼくには分かっているからだ。
       ―― 『草の葉(上)』(岩波文庫)、pp. 237-9.

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