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2007年5月31日

たくさんしゃべって帰る人々

昨日の昼から夜中まで、そして今日は朝から夕方近くまで断続的に来客。振り返るといろんなことがあったな。

なぜか、うちに来てたくさんしゃべって、ストレス発散して帰る人が多い。両親の代からわが家はよろず相談所と化している。母も兄も姉もみんな話しやすいみたい。きっと僕がいちばん話しにくい人間だろう。それでも、最近は聞き役になっていることが多い。体の問題とストレスは関係深いしね。

今日会った人も、話の途中で脈絡なく「私ストレスいっぱいなんです」と言い出して、その後ひとしきり家族の問題を聞いてあげた。僕思うけど、いったい家々の明かりの向こうで、人知れず悩み苦しんでいる人がどれだけいることだろう。

だめだ、どうも気持ちが乗らない。ここまで。

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2007年5月30日

なんとも動物的な

昨日夕方、仕事の関係者から「今日解体したばかりの牛肉を今から持っていくからね」と嬉しい連絡が。市場には出さないおいしい肉なのだ。20分後、その人の手には、ロースの入った袋と、もうひとつレバーの大きな塊の袋。おお、ものすごく光沢あるけど、肝臓を無造作に持っている姿はなんとも動物的だな。新鮮なので、どちらとも半分は生で食べた。うまいうまいと大勢で騒いでいる間に、全部なくなった。まるで親が獲得してきた餌の肉にたかる動物の子どもたちのよう。

月末は雑多なことが多すぎて、本当にしなければならないことがはかどらない。明日のために準備しなければならないことがあるんだけど、どうしようかな。まあ、まずは風呂入って、そうしたら眠たくなって、まあどうにかなるさと思って、きっと寝てしまうんだろう。いつもそんなもん。

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2007年5月29日

ぎりぎりテイクオフ

昨日(27日)は結局2時間遅れで出発した。もともと夜の便だったので、ある程度ダイヤは回復していたみたい。

使用する飛行機が到着したのが20時半過ぎ。なのに、21時までしか伊丹空港は使えないという厳しい運用制限があり、間に合わなかったら飛び立てませんということで、とにかく乗ってくださいと急かされた。機内清掃はなし、飲み物はホットの準備はできず。21時ぴったりにテイクオフ。フゥ~。

ほろ酔い気分で真っ暗な外を眺め、機内オーディオで特集されていた竹内まりやの歌を聴いていたら、とても切なくなってきた。「シングル・アゲイン」で撃沈。

相国寺の若冲展だが、行ったのが土曜の午後だったこともあり、1時間半待ち。中でも何度も動けなくなり、作品自体は30分ほどしか見る時間がなかった。それに人が多すぎて前に行くのも難しく、鑑賞にはほど遠い状況。見るというより、団体で移動しているようだった。途中で流れに逆らうのはやめた。「動植綵絵」のディテールをゆっくり眺めるなんていう余裕なし。

でも、不思議だなと思ったのは、はっきりとした色使いで一見平面的に見えるものが、しばらくたつと立体的に見えてきて、それだけじゃなくて、鳥は飛んでいるように、魚は泳いでいるように見えたこと。「釈迦三尊像」は模写した原画のせいか日本的じゃなくて、ちょっと違和感があった。

草木成仏や釈迦三尊を荘厳する意義があったとはいえ、動植物を極彩色でしかも細かいところまで描き出すということとそれらが結びつくという考え方(そう書いてあったわけじゃないけど、結果としてそういうことなんだろうと思う)に興味を惹かれた。

だめだ、眠くてもう書けない。日曜のセミナーのことなど、まだ書きたいことはあるが、またいつか。尻切れトンボでごめん。

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2007年5月27日

伊丹から一言

今、伊丹空港。ANAはシステム障害を起こしているらしく、欠航や遅延が相次ぎ、僕も只今フライト待ち。だからラウンジで暇つぶしの更新です。

伊丹空港って、なんだか昔の大病院のようなしらっとしたインテリアと雰囲気。でも、意外にもワインバーがあったので、そこでコート・デュ・ローヌのワインを飲んだ。酸味が強くてびっくり。飲み干したら、店員さんが「もう1杯他のをいかがですか」というのを、「いや僕の便は定刻通りに飛ぶみたいだから」と振り切って搭乗口へ行った。なのに、なんと1時間半の遅延とのこと。もっと早く教えてよね。さっきまでそんな表示出てなかったのに。

仕方ないのでラウンジへ行ったら1,000円分の食事券をくれたので、それで食事をして、でも時間がたっぷりあるので、ラウンジへ戻ってコーヒー飲みながら、雑誌読んだりネット見たり。今日は朝から頭使いすぎてもう難しい本を読みたくないのだ。

でもそろそろ行きます。今日中に家にたどり着けたらそれでいいよ、という気分。

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2007年5月26日

再誕1周年

今真夜中だが、日付変わって今日26日は、兄が糖尿病性昏睡で生死の境をさまよってから、ちょうど1年になる。こりゃ死ぬなと思っていたのが、みごとに復活し、その後胃がんの手術までして、今は誰もが別人だと思うぐらい元気になった。

なので、今日は兄の再誕1周年だ(とわが家では呼ぶ)。今夜は僕が大阪なので、昨晩一日早くお祝いをした。

兄が部屋でけいれんを起こしているのを、姉がたまたま発見した。数分遅かったら死んでいたかもしれない。姉が階下の僕を呼ぶ叫び声からはじまって、病院で意識が戻るまでの数日間のことは、きっと一生忘れないだろう。いろんな場面がありありと浮かぶ。それらを思い出すだけで、涙が出そうになる。

それだけに昨日はとても感慨深く、今兄が家族の誰よりも元気でいることを僕は宇宙に向かって本当に大感謝したよ。家族はまだ他にも問題を抱えているし、僕自身も大きな荷を背負っているけど、1年前と比べたら明るいもんだ。生きていさえすれば、問題はどうにか解決できていくさ。

意識不明になったのをきっかけに、兄は生活態度をあらため、心の持ちようもまったく変わった。せっかくこの世に戻されてきたのだから、と人のために尽くす思いが強くなったらしい。元来が心の優しい人で、誰からも好かれ、話も上手なので、健康で気持ちが晴れ晴れしているとなると、ますますそれらに磨きがかかるわけで、いろんなところで引っ張りだこである。

今日からまた、家族みんな次の1年に向かって出発だ。まずは今日、幸先のいい一日にしたい。

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2007年5月25日

そこに筋が通るとしたら

丸川珠代さんの出馬、とくに自民党から立候補することについて、いろいろ批判があるようだ。昔は反自民だったんじゃないの、と疑問を投げかけられているが、人間の考えなんてそんなものだよ。ジャーナリストじゃなくて、商品といっても過言ではない女子アナだから、そこに思想を求めても仕方ない。

まあ、テレ朝から自民なんて笑えるし、テレ朝にはお気の毒だけど、女子アナの人って「このテレビ局の政治的立場に共感して入りました」なんていう奇特な人はいないだろうから、節操がないように傍から見えても、本人は別になんてことはないんじゃないだろうか。

僕はそんなことより、権力の魅力、というか魔性といっていいだろうけど、それはあっという間に人間を変えてしまうぐらいの力を持っているんだということをあらためて感じた。

官邸に呼ばれ、総理直々に出馬要請を受けてみよ。権力の魔物にとり憑かれて、多くの人はそれまでの考えなんて吹っ飛ぶさ。そして、「自分の思いを届けるには政権与党しかない」なんて、およそ理解しがたいことを平気で宣言してしまう。

もし民主党が与党だったら、彼女は民主党から出たというのだろうか。もし自民党が与党じゃなくなったら、彼女はどうするつもりなのか。彼女の論理は無茶苦茶だが、そこに筋が通るとしたら、自民党はずっと与党であり続けるという前提がなければならない。しかし、それがありえるかもしれないから怖いじゃないか。彼女のあの発言は、日本だからできることだ。

Kaeru4

さて、小さなカエルの姿を時々庭で探しているのだが、今日は久しぶりに違う木の枝で発見(3匹いた)。暑さを避けるように、込み入った枝のところにいた。写真を撮ろうと思ったら、ちょうど近くの川のほうからカエルの合唱が聞こえてきて、それに合わせるように、こいつも体を膨らませて唸り始めた(フラッシュで夜みたいになってるけど夕方です)。

朝見つけて、案の定一日中ずっとそこにいた。人間の心もお前ぐらい不動のものであればなあ。

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2007年5月24日

結局うなぎの話だけ

佐世保から、うなぎの蒲焼きがたくさん届けられた。他にもアジなど。佐世保=基地というイメージがあるかもしれないが、僕の周辺でいうと、佐世保、平戸、唐津、博多といった地域は魚がうまい。

ということで今年初のうなぎを夕食で頂いたが、今晩出稿の姉の原稿を夕方編集して、夜は仕事で出かけなければならず、その間に急いで食べたからあまり味わえなかった。

帰ってきても遅くまで来客だったが、その後、姪たちと話しながら、うなぎをつまみに勢いでビールを飲んだ。どうしたら太らないかというテーマで盛り上がって話にのめり込んだので、やっぱりうなぎは意識しないまま食べてしまっていた。

まあ、いいじゃないか。

眠い。結局うなぎの話しか書いてないけど、以上終わり。

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2007年5月22日

声って大事

今日話を聞いた女性の声は、とても心地よかった。声の質、響き、しゃべり方、すべて僕の大好きなもので、けっこうなおばさまだったが、目を閉じて声だけ聞いていたら惚れてしまいそうなぐらいだった(いや本当に)。

前も書いたけど、コミュニケーションに占める影響は、態度や表情(非言語)とともに声(近言語)が大きな割合を占め、話の内容(言語)なんて1割にも満たない影響力しか持っていない。

そうだなと思う。僕は改憲して何が悪いのかと何度もこのブログで意見しているけど、安倍さんが改憲の話(だけじゃないけど)をすると途端に嫌な気持ちになるのだ。僕はあの人の声、話し方、目線、表情、態度がいちいち気になって仕方なく、すぐに見たくなくなってしまう。政治外のことで批判するのはよくないかもしれないけど、指導者ってそういうところも大切だと思うんだよな。不思議なぐらい、人間の深さを感じない。

追伸 今朝の「大阪は嫌い」は、厳密にいうと「大阪は苦手」です。あの人やこの人に「言い訳するな」と言われそうだが……。

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目覚めが早かったので一言

朝5時半頃目が覚めた。もうひと眠りしようと思ったけど眠れず、ニュースを見ていても、安倍さんの無理して指導者面している顔を見るたびにムカムカするので、朝からこんなではいけないと思って切った。昨晩ブログを書かなかったので、ちょっとだけ更新。

昨晩はイエズス会に関する本を読みながら寝たんだった。僕のなかでは重なって見えてくる現代的な光景があり、面白い半面ぞっとした。読了したら、またちゃんと書きます。

luchino001さんのブログ「今日を生きよう」で、伊藤若冲の展示を見に行ったことが書かれていた。茂木さんがそのちょっと前に感想を書いていたけど、一般公開しているのは昨日まで知らなかった。この週末、大阪に行くので、ついでに京都まで足を延ばすことにしよう。

そのまま京都に泊まろうと思ったけど、まともなところはどこも満室なり。さすがは京都? もしくは何かあるのだろうか。仕方なく、予定通り大阪のほうへ戻ることにした。ため息。なぜかって。

ボク、オオサカハキライナノダ。

さて起きるとするか。深く眠ったようで、気持ちがいい。

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2007年5月20日

コミュニケーションに余韻がないこと

小山文雄『漱石先生からの手紙―寅彦・豊隆・三重吉』(岩波書店)を読む。一言でいうと、漱石の便りのなんと味わい深いことよ。小気味良い文章のなかに、相手を気づかう優しさが溢れている。江戸っ子らしい軽やかさも随所に見られる。

Koyama_book 僕の周りでは、やたら師弟、師弟と騒ぎ立てる人たちが多いけども、師匠が絶対神になってしまっている世界は、師弟ともに不幸だと思う。

漱石は偉く思われるのを徹底して嫌っている。たとえば鈴木三重吉に「三重吉さん。先生様はよそうじゃありませんか、もう少しぞんざいに手紙を御書きなさい。あれはあまり叮嚀過ぎる」(p. 169)と返事したり、小宮豊隆には「左程に僕を信仰してくれるのは難有(ありがた)いが君がそんな傾向を発達させると飛んでもない事になるよ」(p. 89)と書き送ったり。

誉めるところはきちんと誉め、叱るところはきちんと叱る。いろいろ世話も焼く。師弟ともに意見し批判しあう。木曜会という毎週木曜の門下たちの集いでは、漱石の前でみんなざっくばらんにしゃべっていたのだという。その座を想像するに、羨ましい限りである。

寺田寅彦は漱石の死後、こう綴っている。「夏目先生が亡くなられてからもう何処へも遊びに(純粋な意味で)行く処がなくなりました、小弟の二十才頃から今日迄の二十年間の生涯から夏目先生を引き去ったと考えると残ったものは木か石のような者になるように思います、不思議な事には私にとっては先生の文学はそれ程重要なものではなくて唯の先生其物が貴重なものでありました」。(p. 74)この回想のどこを切り取っても、美しい人間関係が浮かんでくるではないか。

さて、手紙ということであらためて思ったこと。

僕らは手紙という通信手段をほとんど放棄している。いつでもどこにいても、話したい相手と携帯でしゃべり、逐一メールを送る。インスタントでコンビニエントなだけに、そこには内容に漏れがあったり、時間差が発生することがない。つまり、コミュニケーションに「余韻」というものがない。手紙の良さは、その余韻が薄い便箋や一枚の葉書の上に満ち満ちていることだと思う。今僕らの人間関係が窮屈だとしたら、それはコミュニケーションに余韻がないこと、いい意味での「間」がないことが問題なのではないだろうか。

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2007年5月19日

それでも住みたい

いつ以来だろうか、おそらく何年もしたことないと思うが、今日は一度もコーヒーを飲まなかった。

このところ飲む回数を減らしていて、朝はできるだけ控え、夜は飲まないようにしている。それでも午後1回は必ずコーヒーの時間を持っていたが、今日はその時間を逃してしまった。

Takahata_book_1 図書館で目に留まった、飛幡祐規『それでも住みたいフランス』(新潮社)を読む。表紙が気に入ったので借りたのだが、異文化の話ってどうしてこんなに面白いのだろうか。

フランス人があまりモノを買わないとか、学校教育がバラバラだとか、しかし子どもの頃から社会のなかでたくましく生きていく個の育成ができているとか、ブッシュ流の善悪二元論をなぜ嫌うかとか、平易に書かれているが情報はしっかりと詰め込まれていて、なかなか読みごたえがあった。

だから思ったよりスムーズに本はめくれなかった。でも読んでて全然退屈しないので、最後まで一気に読める。

昨日話をした知り合いの女の子は、パリに住んでいたことがあって、やっぱりフランスへ戻ることを考えている。僕もフランスへの憧れはかなり強いんだけど、こういう本を読むと、やっぱり落ち着いたイギリスに住んで、時々ドーバーを渡るのがベストかなと考えてしまう。

でも、「それでも住みたい」と書くのは分かる気がする。異邦人としてその土地の慣習や制度、人々の性質にとまどい、怒りながらも、自分たちとは違う人間の奥深さを発見する。それは、生活スタイルであったり、物事を見る目であったり、コミュニケーションの仕方であったり、社会の仕組みであったりするだろう。どこかではまってしまって、居心地の良さを見つけてしまったら、他の負の要素もたちまち滋養に変じてしまう。そして、余裕をもって眺めることができるようになる。異文化は不思議な魅力を持っている。

きっと世界中どこにいる人でも、「それでも住みたい○○」という本を書けるのではないだろうか。

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2007年5月18日

成長や消費ばかりを追っていいのだろうか

兄と地球温暖化から経済のあり方について話をした。

国のGDPにしても企業の売上高や収益にしても、増加することだけが良しとされている。その前提には、大量消費社会が存在しなければならない。

環境のことを考えるとき、今のところは消費をできる限り抑制することが大切だろうと思う。そうすると、地球との共生のために、僕たちの製品購買に対する姿勢や、国や企業の経済指標は大きく変える必要があるのではないだろうか。

技術革新をしたり、環境が大きなビジネスになるから、経済成長と環境は共存できるという人たちもいるが、それですべて丸く収まるとも思えない。

当たり前のように捉えてきた経済成長や消費社会というのを、根本的に考え直さなければならないのではないか、つまり個人に即せば、ライフスタイルを慎ましいものに変えなければならない、いや戻さなければならないのではないかと、落ち着かない気持ちで考える昨今である。

いや、環境うんぬんという前に、どんどん新しいものを買うことで成り立っている社会というのは、何か人間的に欠陥があるのではないだろうか。

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2007年5月17日

何か障害者と関わることをしようと

新聞の取材で、ある障害者作業所の所長を訪ねてきた姉が興奮気味に帰ってきた。エネルギッシュでビジョンを持った素晴らしい人だったと感心することしきり。しばらく話を聞いてあげて、クールダウンさせた。

わが家にも障害者がいて、多くのことを経験してきた。それに、その子がいる施設では兄が役員を務めている。障害児教育を専門にしている地元の大学の教員とも長く交流を続けている。僕たちの仕事の関係もあって、障害を持つ人たちやその家族の方々との付き合いも多い。

あまり今まで考えずにきたけども、姉から話を聞きながら、わが家も将来的には障害を持つ人たちのために何か事業ができるようになろう、と兄たちと話し合った。障害と関わってきたのにも意味があるだろうから。うん、きっといつか。

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2007年5月16日

生活習慣を変えられないから厄介

筑紫哲也さんはヘビースモーカーだという。ということは、ガンの特集を組んだりして一生懸命ガンについて発信しながら、つまり、ガンは生活習慣病のひとつであることを重々承知しながら、自分の生活習慣を変える努力はしていなかったことになる。「自分は大丈夫」という過信があったようだ。

生活習慣病の根底には、多くの人がまさにその生活習慣を変えられないという厄介な問題がある。たとえば、糖尿病の病棟へ行ってみたらいい。糖尿病教室に参加し、栄養士から食事指導を受けながら、そのかたわらでこっそりと売店で甘いものを買って食べたり、せっせと喫煙スペースへ足を運んでいる患者が何人もいる。

人体に対する生活習慣の悪影響について突き詰めていけば、現代的な生活上の楽しみはすべて捨てなければならなくなり、そうしたら日常はまったく彩りがないものになるだろう。だから、多少は仕方ないにしても、度が過ぎないようにし、それを習慣化しない頑固さが大切だ。

でも、どれだけ言っても、多くの人は喫煙や飲酒、過食などを過小評価している。「病気になったときはなったときさ」とか「病気になってもかまうもんか」と豪語する人もいるが、いざ重い病気を宣告されるとジタバタするのだから、まったく困ったもんだと思う。

かくいう私、最近努力していることのひとつは、睡眠の取り方。いちばん疲れが取れ回復力が働くといわれる午後10時から午前2時の間になるだけ重なるように睡眠を取る。現実的には日付が変わるまでに床に就くようにしている。体の感覚や目の感じが違うのがわかる。

今日こんなニュースがあった。

男性喫煙率、4割切る=05年、調査で初めて-厚労省(時事通信)

男性が4割弱というのも、女性が1割だというのも、どうも実感とは違うが、喫煙率が下がっているのであれば喜ばしいことだと思う。  

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2007年5月15日

ひもはスルスルッと消えていった

とっぷりと日が暮れたなか近くの川沿いを歩いていると、途中でついにあいつに出合ってしまった。今年ももうそろそろだろうなと思ってはいたが。

あいつとは……、ヘビ。川から上がってきていたのだろう。足下もすでにはっきりと見えないぐらいだったが、次の一歩を踏み出そうと思ったその先に、黒っぽい曲がりくねったひものようなものが目に入ってきた。もしや? 危険を感じて宙に浮いていたその右脚をとっさに左側に向けたのと同時に、ひもはスルスルッと逆方向の川岸の草叢に消えていった。やっぱりそうだったのだ。

たった50cmほどの細いヘビだったが、ヘビはヘビ。見ただけで怖い。うん、ヒラクチだったのかな? だったらよけいに怖い。でも、より動物的に生きていた頃の人間は、そういうものと対峙し、または共存して生きていたのだ。自然を感じるとは、気持ちのよいことばかりではない。ときに切迫した身の危険を感じることでもある。ヘビなんかちっちゃな話に過ぎない。もっと心臓の拍動がバクバク聞こえるぐらいの自然の驚異と直面することは、「人間とは何か」をつかむためにきっと必要なのだろうと思う。僕らは、あまりにも自然とかけ離れた世界にいながら、それでいて世界を知っているかのような顔をして生きている勘違い野郎だ。みんなもっと身体感覚が必要なはずだ。

腰を横にねじったときに、ふだん使わない筋肉が動いたのか、右脇腹の奥がちょっとだけ痛んだ。それはたまにしかない、いかにも動物としての動きのせいだった。

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2007年5月13日

たとえ百万の宇宙を前にしても

朝早く起きた。返さなければいけないビデオを見たり、今度会うまでに読んでおかなければいけない本を読んだり、見てくださいと頼まれた講演のDVDを見たり。追い立てられるのは好きではないが、そうでもしないとやらないことが多々ある。今日は、箇条書きにされた義務をひとつずつこなしていった感じ。

また『草の葉』から抜粋。僕の、思想というと大袈裟だけど、生命の力をぐんと高めたときの考え方はこんなものだと思う。わが意を得たりという感じで、とてもすんなりと受け入れられた(というとホイットマンに失礼だけど)。これはもうキリスト教じゃなくて、仏教なんじゃないかな。

ぼくは言った魂がからだ以上のものではないと、
ぼくは言ったからだが魂以上のものではないと、
そして何一つ、たとい相手が神であっても、自分にとって自分以上に偉大なものはなく、
しばらく歩いて共感の心の疼(うず)かぬ者は屍衣(しい)をまとっておのれの葬儀に出向いているにほかならず、
たとい懐に貨幣一枚持たなくとも君であれぼくであれ地球の精髄は買えるのであり、
たとい片目でちらりと眺め、たとい莢(さや)にはいった豆ひと粒を見せるだけでも、古今の知識はことごとく困惑し、
若者が励めば英雄になれぬような商売や職業は一つもなく、
宇宙を動かす車輪のために轂(こしき)になれぬほどひ弱なものは一つとてなく、
そしてどんな男や女にもぼくは言う、百万の宇宙を前にしても君の魂を泰然自若たらしめよと。

そして人類に向かってもぼくは言う、神のことなど詮索するなと、
個々のものについてなら詮索ずきのこのぼくも神のことなら呑気なもの、
(神のことや死のことでぼくがどんなに悟っているか、どれほど言葉を並べてみても言いつくせない)

あらゆる物象のなかに神が聞こえ神が見え、そのくせ神のことがかいもく分からず、
ぼく自身よりみごとなやつがいるなんてさっぱり分からず。

きょう以上に神を見たいなどとぼくがどうして望むものか、
二四時間がひとときも休まず、そのひとときが一瞬も途切れず、ぼくに神を垣間見させてくれている、
男や女の顔のなかにも、鏡にうつったぼくの顔にも神が見え、
神からの手紙だって巷のあちこちに落ちており、どの手紙にも神の署名がちゃんとある、
ぼくはそれらの手紙はそのままにしてその場を離れる、たといぼくがどこへ行こうと、
別の手紙があとからあとからきちんと届くことがぼくには分かっているからだ。
       ―― 『草の葉(上)』(岩波文庫)、pp. 237-9.

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2007年5月12日

プチトマトに感謝

有機栽培のプチトマトが、知り合いの農家の方から送られてきた。夫婦で丁寧に育てていらっしゃる。すべて東京方面へ高値で出荷されるので、地元では店頭に並ばない代物だ。だから、美味くないわけがない。昼も夜もたくさん食べた。

小さい頃からずっと、僕はトマトが大嫌いだった。それを克服したのは、ヨーロッパへ行ってプチトマトを食べるようになってからだ。どうして食べようと思ったのかよく覚えていないが、きっといろんな料理でトマトが出てくるから、食べきれないと食事の幅が狭まると思ったんじゃないかなあ。口にしたプチトマトが甘かったのと、小さいのですぐに食べ切れたのがよかったのかもしれない。幸い、おいしいと感じた。それから、だんだん大きなトマトも苦にならないようになった。もしあのままトマトが食べられないままだったら……、イタリアンはかなり楽しめる範囲が狭かっただろう。そう考えたら、プチトマトへは大感謝だ。

ヨーロッパといえば、今日テレビでブダペストの紹介をしていた。街が世界遺産になっていて、とくに国会議事堂の美しさはすごかったし、フォーシーズンズのホテルはかなりいい雰囲気だった。イギリスの古さと違って、清潔感があってモダンな印象も随所にあった。

イギリスにいた頃、ブダペスト出身の学生がいたけど、そういえばよく自分の街を自慢していた。たいしたことないくせに、とあまり聞く耳を持っていなかったけど、東欧への先入観が強かったのがいけなかった。行ってみる価値は十分にありそうだ。でも、まわりでハンガリーを訪れたことのある人はいないなあ。

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2007年5月11日

すべてのものを織糸にして

ホイットマン『草の葉』の「ぼく自身の歌」の一節から。

都会が眠り、田舎が眠る、
いのちある者は時くれば眠り、死者たちも時くれば眠る、
老いた夫は妻のかたわらで眠り、若い夫も妻のかたわらで眠る、
そしてこれらのものたちがぼくの内部へ流れこみ、ぼくも外なる彼らへと流れ出る、
そして些細なことながら、ぼくも多かれ少なかれこれらのものたちの一つとなる、
そしてこれらのものを一つ残らず織糸にしてぼくはぼく自身の歌を織り上げていく。

自分自身を歌うとはつまるところ、すべての人を、すべての生き物を、宇宙を歌うことになるのだということを、彼の詩のいたるところで感じる。

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2007年5月10日

トニーが去る

ついにトニー・ブレア首相が辞任すると発表した。若々しい指導者の誕生にイギリスのみならず世界中が熱狂したのは、もう10年も前のことだ。当時イギリスにいた友人が、首相就任のときの Times と Guardian を一部ずつ送ってくれたことを思い出す。

今日の選挙区での退陣表明は、とてもエモーショナルなものであった。彼自身が認めているように、もちろん間違いもあったはずだ。政治家は全能の神ではないし、それに何をやっても批判はされる。とくにイギリスのように国民の目が厳しいところでは。それでも、なにか華があったのは事実だ。彼なきあとのイギリス政界は、しばらくの間寂しく感じるだろう。

BBC の One O'clock News は、エンディングでこの10年のハイライトシーンを流した。バックには Oasis の "Don't Look Back in Anger"(いつも僕が口ずさんでる歌ですよ!)。去り行く人にはぴったりの歌なのかもしれない。なぜか涙が出そうになった。歌に対してなのか、ブレアに対してなのかはわからないけど。

僕はこの one decade いったい何をしてきたのか。かなり老けてしまったトニーの、青年のような10年前の姿を見ながら、ちょっと感傷に耽ってしまった。

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2007年5月 9日

つくねんとそこに

今日は昨日の続きで、またカエル。

Kaeru3_1 もういないだろうと思って眺めていたら、おぉ、いるじゃない(っておんなじやつかどうかは知らないけど)。今日は太い枝の上にいた。ちょっと風があったので、さすがに葉っぱの上では安定しなかったのだろう。

昼過ぎに発見して、夕方もう一度見にいったら、なんとまだ同じ場所に居やがった。顔を眺めてたら、おかしくなってきた。4時間つくねんとしていられるなんて、こいつは幸せだ。

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2007年5月 8日

騒然とした一日

朝からずっと人の出入りが続いた。それに伴って物も運ばれてくるわけです。

姉が外で「ちょっと手伝って」と呼んでいるので行ってみたら、そこにはコンテナ1個分のたまねぎが。げぇー、やっとたまねぎ攻撃から解放されたばかりなのに。午後10人ほど人が集まったので、みんなになかば強制的に分け与えた。

その他に、お刺身やお菓子、お花なども。夜遅く振り返ってみたら、誰が何を持ってきてくれたのか判然としない、騒々しい一日だった。

Kaeru2_1朝の早い時間に外でストレッチをしていたら、もみじの葉っぱが揺れた。なんだろうと思って目を凝らしてみると、まだ朝露で濡れた葉の上に、カエルがじっと座っていた。きっと、葉っぱから葉っぱへぴょんと移動したので揺れたのだ。

かわいかったので、思わずカメラに。か細い枝と薄い葉の上で、どうやってカエルは安定していられるのだろうか。

写真を姪っ子たちに見せたら、「気持ちわる~」とのけ反っていた。なんだと! とっても小さくてかわいいのに。

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2007年5月 7日

最初にすることは…休暇

フランス大統領選は、第1回目も今回の決選投票も80%以上の投票率になった。それだけ難しい問題を国も国民も抱えているのだろう。しかし、政治に白けてない国というのは、それだけで素晴らしいと思う。

日本の国政選挙で8割を超す有権者が投票したら、どんなに面白い結果になるだろう。組織票なんてみごとに吹き飛んで、今までの概念をぶち壊すことになるんだから、ぜひともみんな投票しようよ。

サルコジは、まずは休暇を取るらしい(組閣準備はするらしいけど)。そんな呑気なことができるフランスという国はあっぱれだ。彼曰く、東京は息苦しいそうだが、そりゃあそうだろう。

我々日本人はもっと気楽に生きていいのではないだろうか?

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2007年5月 6日

メンタルサプリ

最上悠『世界の精神科医がすすめるメンタルサプリ』(河出書房新社)を読んだ。うつをはじめ精神的な悩みをもっている人がまわりにもいるので。

ビタミンB群や魚油(DHA)、セロトニンなど、よく聞き知っているものばかりだったし、僕が人にアドバイスするときの話と通じるものだったので、すんなりと納得できた。しかし、これらは日本の臨床でほとんど使われていないと著者は何度も指摘している。日本の医療って、クスリ一辺倒の考えからどうして脱却できないんだろうか。

サプリうんぬんよりも、後半のココロのトレーニングについて書かれているところがとても参考になった。時々、自分自身がプチうつじゃないかと思うときがあるので、ものの考え方には気をつけなければと思う。あと、カフェインの取りすぎも。

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2007年5月 5日

酔って何も書けない

くらくらと酔っている。急に親戚が方々からやってくることになり、じゃあ焼肉をしようかということになった。姉の旦那のお母さんの妹さんの旦那さんというほとんど親戚じゃないけどいちばんの親戚のように親しくしているおじさんも久しぶりに来て、楽しいひとときを過ごした。ちなみに、そのおじさんの息子さんの奥さんとも時々会う。初めての人にどんな関係か紹介すると、いつも紹介されているほうがみんな訳が分からなくなる。たまにこんな大陸的な関係が嫌になるが、集まるとやはり嬉しいし楽しいし酔ってしまうのだ。

サンテミリオンのワイン(たいして良いものじゃないけど)が安かったので、1本買って、ほぼひとりで飲み干した。ワインで酔うなんていつ以来だろうか。他のどんな酒で酔うよりもワインで酔うのは心地よい。

初めてパリを訪れたときに、友人がボルドーの各地区のワインを1日1本ずつ飲むぞと導いてくれたことを、おおいに感謝している。1杯ごとに、1本ごとに、そして地区ごとにこんなに違うんだということを教えてもらった。

でも、ブルゴーニュの村々を旅したあとでは、ボルドーの力強さよりは、ブルゴーニュの繊細な香り高いワインがより好きになった。ともあれ、フランスは幸せな国だ。

もう何も書けません。以上。

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2007年5月 4日

シルクロード、行ってはみたいけど

シルクロードを旅したいという思いが昔からあって、今日も敦煌の映像を見ながら、せめて莫高窟や月牙泉ぐらいは行ってみたいと思うのだが、果たして現地の劣悪な環境やサービスに耐えられるかという心配もある。

いや旅というものは、本来そういうリスクを楽しめるぐらいじゃないといけない。とはわかってはいるものの、かなりの勇気と忍耐力と体力が必要なようだ。ヨーロッパを旅するようにはいくまい。

気の置けない人たちと一個連隊で行ったら、道中での辛さや怒りも軽減されそうなので、ここは募ってみんなで行くしかない。5年後ぐらいに実現したい。だけどみんな、そんな暇ないって言うんだろうな……。僕自身はぜひとも、数年経ったら時間とお金から解放されていたいと願っているのだが。

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2007年5月 3日

話して無駄な人には話さない

多少なりとも憲法のことが注目されている今年の憲法記念日だが、改憲とか護憲とかいう枠組みで話をすることは、いい加減やめてもらいたい。それに、集団的自衛権の類型化とか。イラクのときもそうだけど、戦闘地域と非戦闘地域の区分とか、そういうことに時間を注いで、本当に話し合わなければならないことがほとんど議論されないのが、戦後日本の安全保障論議だ。

僕は、イラク特措法案審議のときの委員会議事録を最初から読んだけど、野党の議員はほとんど何ひとつまともな質問をしていない(だからといって与党のほうが真っ当なことを聞いているわけでもないんだけど、話に発展がある分良い)。頑固者は税金の無駄だから、早くバッジをはずしてほしいと心の底から願う。

別に右の人たちの応援をしているんじゃない。反対でも賛成でもいいから、本質的な議論をしてほしいのだ。無駄なことに時間を費やさないでほしい。

無駄といえば、今日午後セミナーに参加していてあらためて思ったのだが、何か大事なテーマがあったとする。大事だから、誰にでも話そうと思うのが自然だけど、その話を理解できないような感性の鈍い人には、時間をかけるだけ無駄である(あくまでも時間的な効率という点ですよ)。

だから無駄かどうか見極める目を持たなければいけない。頭が良いことと感性が良いことはまったくの別物で、頭が良いことが障害になって、逆に物事の本質をつかめない人たちがいる。僕もそんな左脳人間に何度か出会っている。そういう人には二度と同じ話はしない。何かのきっかけで相手の視点が変わることがあるから、そのときをじっと待つのみだ。

コミュニケーションで疲労だけが残るという事態に陥らないようにしたいと最近つくづく感じている。

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2007年5月 2日

あなたは誰?

この季節の気持ち良さはなんともいえない。福岡市内で用事があったのだが、それがキャンセルになったので、図書館へ行くついでにドライブした。

夕方、高校生の姪を連れて眼科へ行ったら、「お父さま」と呼ばれてしまった。そんなわけないだろう、俺が所帯構えているように見えるか?と反論したいところだけど、向こうもきっと困ったんだろうな。

お父さんにしては若いし、お兄さんにしては年が離れすぎているようだし、家族以外が来るわけはないし、と。そこで、父親か兄かの究極の選択となると、前者を選ばれるのは仕方ないと思う。実際、今回が初めてじゃないし。

成人している姪と一緒に出かけたときには、お店の人に「旦那さま」と呼ばれたこともある。苦笑するしかないのだが、この場合、姪も大人びているので、さすがに父親には見えず、しかし兄にも見えず。まあ年の差カップルは存在するから、消去法的に夫になってしまうのだろう。こんなときは、どうせその場限りだからそのまま通すことにしている。

でもいつも、どっか違うんじゃないかなという確信のなさは相手から感じる。あなたはいったい誰なの? そう思われながら話をするのも楽しい。

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2007年5月 1日

人生とは悩むこと

夜遅くなって、記事作成画面を開いている。本当は日にち変わって2日だけど、ちょっとズルをして1日付としてアップします。

今日は朝から人の出入りが多く、落ち着く暇はなかったけどひと月のスタートしては順調。…と言いたかったのだが、最後に甥っ子が大問題を持ってきて、一堂大きなため息。

事前に、珍しく家に来るという知らせが入ったので、何かよっぽど良いことか、よっぽど悪いことが起こったのだろうとみんなで言っていた。僕の推測を述べると、みんな「それはないだろう」と否定していたのだが、ふたを開けたらどんぴしゃり当たりで、母に「あんたは鋭い」と感心されてしまった。

そんなアホな会話をしているような内容ではないのだが、どうせ悩むなら明るく悩もうというのが、最近のわが家に自然とできあがった精神的な姿勢である。そして、悩みを与えてもらえることに感謝することも覚えた。

人生とは悩むことの異名でもある。でも悩みに引きずられてばかりいては、その悩みはきっと活きないだろう。表現は難しいが、悩みを高みから見下ろして悩むというような、強靭な魂というか解放された精神になれないといけないと思う。もちろん、悩みを支配したかのようにみえても、次の瞬間、その同じ悩みで地獄の底へ落とされているかもしれない。だから、なるだけ高みにいる時間を長くできるように、気持ちがぶれてもすぐにそこへ戻ってこられるようにすること、つまり生命の基底部をぐんと上げる努力をしておく必要があると思う。

でもそのためにも、まずはおおいに悩むことから始まるんだろう。

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