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2007年4月17日

政治とメディアと国民の思惑の一致

昨晩たまには政治学の勉強をと思って、猪口孝が編集長で Cambridge University Press から出ている英文ジャーナル Japanese Journal of Political Science の最新号(Vol. 8, No. 1)のタイトルを眺めながら、面白そうなのをダウンロードして読んだ。

Ikuo Kabashima and Gill Steel, "How Junichiro Koizumi seized the leadership of Japan's Liberal Democratic Party" (pp. 95-114)

という論文。小泉前首相はメディアを活用し、またメディア側は彼に振り回されもしたが利用もし、そして国民はその報道に多大な影響を受けて小泉政治を解釈していた、という内容。すでに日本語の世界では言い古されたことである。深く掘り下げた議論はどこにもなかったが、2001年の総裁選前後の政治と報道をめぐる枠組みが概括的に提供されていて、再確認にはなる。

小泉さんの手法への批判、それにまんまと乗ってしまったメディアの自己批判は、小泉政権の回顧とともにいやというほど聞いているが、小泉時代に関係なく、メディアは結局のところ、低俗で面白いネタに走りがちだ。見てもらわなければいけない、読んでもらわなければいけない、買ってももらわなければいけないからだ。つまり、儲からなければ元も子もないのだ(上の論文でも指摘してあるが、小泉さんはそれをよく心得ていた)。だから、久米宏のニュースが受けるようになると、民放はこぞってニュース番組のソフト路線化とどうでもいいコメント挿入を始めるようになった。

政治側はメディアを利用したいという誘惑に駆られ、メディア側は刺激的な報道をしたいという欲望を抱き、一般国民は観客と化して面白いものを見たいという欲求を捨てられない。これら三者の傾向性は、どんなに政治が成熟しても、民主主義のもとでは考慮せざるを得ない要素として残るだろう。それがそれぞれ極端に走らずに、お互いうまくチェック・アンド・バランスの関係であることを望むしかない。

この三者の思惑が、浅薄なレベルだったかもしれないが奇妙に一致したということが、小泉政治の重要な一面だったのではないだろうか。しかし、それができたのも、小泉さんやその周辺のキャラクターが人間味あふれていて、彼らが追求した政治や政策が国民の多数に共感を生むものだったからだろうと思う。素材が良かったのだ。

それに比べて安倍政権の素材がまずいことは否めない。

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