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2007年3月 6日

れんげ草に法華経に心動き

昨日一日のことを振り返ってみると、朝から晩まで良いことや芳しくないことがごちゃまぜになって次々と報告され、僕の心はまるでジェットコースターみたいに上に行ったり下に行ったり。それに振り回されないよう、気を引き締めている。

晴れているが風は冷たい。外を歩いていると、田んぼの脇につくしが顔をのぞかせていた。小道に沿って、れんげ草も咲いている。

小さい頃、春の田んぼといえば一面れんげ草だったように思う。他人様の大切な田んぼにみんなわがもの顔で勝手に下りていって、裸足で遊んでいた。たしか、れんげ草の蜜を吸うのがうまい奴がいて、僕は真似しようとしてもなかなかうまくいかなかったんだと思う。いつの頃からか、れんげ草は田んぼからほとんど消えてしまった。

昨晩寝る前に、何か読む本がないかなと思って押入れを開けたら、法華経の英訳本、The Lotus Sutra translated by Burton Watson (Columbia University Press, 1993)が目に入ったので、それを引っ張り出した。

最初のところに Translator's introduction があり、それを読んでいると、法華経の成立年代がはっきりしないことや大乗仏教の流れなど、あらあら知っていることが書かれている。しかし、そのなかで「ああ、なるほどな」と思う面白いことがひとつあった。

法華経を読んでいるとたびたび出合うのだが、訳者が書いている通り、仏が「今まさに法華経を説こうと思う」と言ってみたり、「こういうふうな次第で法華経を説いた」とか、逆に「このように説いていくつもりだ」とか述べたり、この教えをどのように敬っていくか列挙したりする。しかし、実際の説いたもしくは説こうとする教えが、一体どれなのか、法華経のなかでとなるとどこからどこまでを指してそういっているのか判然としない。

訳者は他の研究者のこんな言葉を引用している。すなわち、法華経は決して述べられることのなかった教えである。長々とまえがきがあって、本文がないようなものだ、と。

これを受けて訳者は、真実の悟りというものは絶対的に言葉では表現し尽くせない深いもので、どんなに経を説いたとしても、所詮その周辺を語るだけであって、真ん中の真実のところはどうしようもないのだ、ということだと解釈する。

「難解難入」「言語道断」なのだから、そうなんだろうと思う。宇宙や生命というものがそう簡単に言い尽くせるはずがない。このとらえどころのなさ、漠然としているあたりが、仏教のダイナミズムであり、面白さ、懐の深さなんだろう。

28品のなかの1品ぐらいはこの英訳で読んでみようと思う。

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