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2007年2月 8日

豊饒の海になりたい

夕方、釣りたてのイカをたくさん頂いたので、さばいて刺身にし、げそは煮て食べた。新鮮でもちもちして甘い。久しぶりに包丁を握った。

同い年の画家の友人は、僕らの歳にしては珍しく前川清が好きで、モンマルトルの近くに住んでいるときも、彼の部屋から流れてくる音楽はもっぱら前川清だった。2週間彼の部屋で寝起きしている間に、こちらも感化されて歌詞を覚えてしまい、夜更けにセーヌ河のほとりを歩きながら、ふたりで「花の時・愛の時」を大声で歌ったりした。とっても良い歌なのだが、最初さびの「♪貝になりたい~」を聴いたとき、なんじゃそれ?と思った。

今日知り合いのおば様と話をしながら、「僕は海になりたい」と語った。人はそれぞれいろんな思想や人生観、行動原則をもっていて、相容れないところも多々ある。しかし、自分と合わないからといって批判したり排除したりしてばかりいると、相手からも同じような仕打ちを受ける。そうやって戦うのもいいだろう。

しかし、それでは自分にとっても相手にとっても、生命を研くという観点からは実は建設的ではないような気がしてきた。それはお互いエゴのぶつけ合いでしかないし傲慢だ。

「多様性を認める」という姿勢は言うは易し行うは難しだ。それでもなお、大きな心で人を包み込めるようになることが、境涯を広げるということの具現化であろうと思うし、人間はこの生のなかでそれを目指すべきだと思う。それはまた、人間を社会化することになるのではないだろうか。

海には、良い成分も悪い成分も溶け込んでいる。しかし、それは一面的な見方であって、違う角度から眺めた場合、毒と思われるものがある生き物にとっては必要不可欠な栄養であるかもしれない。また自然なものであれば、分解されて浄化されていくかもしれない。良いと思われるものが悪いものへと転化することだってあるだろう。それぞれに独自の働きがあり、意味があって存在している。可能性と危険性をもったありとあらゆるものが、大きな海のなかで渾然一体となって共存しているのだ。

人間も自らの心を豊饒の海にできるのではないだろうか。そこに自他ともに善も悪もいろんな生命を流し込んでしまえばいい。自分が海になって、人をそこに引き入れてしまえば、その人は自分の一部と化す。そして願わくば、その人がそこで漂っている間に、その人に即したかたちで同じように心を変革していってほしい。

生涯をかけても難しいかもしれないが、僕は豊饒の海を目指したい。今日いきなりそんな思いがこみ上げてきたのである。

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