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2007年2月 7日

『外交敗戦』を読んで

昨日からココログのレスポンスが悪く、昨晩は書くのを諦めた。今日も記事を書くページへたどり着くまでに数分かかった。どうなっているのか。

東京の行き帰りの飛行機のなかで、手嶋龍一の『外交敗戦―130億ドルは砂に消えた』(新潮文庫)を読了。想像はしていたけど、読後は日本外交の機能不全ぶりにため息が出るばかりだ。著者は「結局、私は『日本の敗走記』を綴ることになったのではないかという苦い思いが残る」(p. 415)と述べているが、筆を進めること自体が苦痛であったろうと同情したくなる。

東京の官邸や外務省のあたふたぶり。外務省と大蔵省の国益ならぬ省益をめぐる軋轢。ベーカーに好きなように操られ、130億ドル拠出してもクウェートに感謝されなかったという事実。湾岸危機から戦争までの数ヶ月にわたる一連の出来事は、日本政府の大きなトラウマとなっていて、その後の安保政策に大きな影を落としていることは間違いない。

憲法9条の精神は素晴らしいものだ。あえて「美しい国」と言うのなら、その美しさの表現が9条のなかにはあると思う。しかし、それはひ弱な知性でしかなく、強固な肉体とはなっていない。日本の置かれている大国としての立場、地域の安全保障の状況を考慮してもなお9条が意味をもつことができるかどうか、もてるとしたらどういう思想のもとでどういう政策が可能なのか、それを真剣に問わざるを得なくなったのが、日本にとっての湾岸戦争の意義であっただろう。その答えは国レベルとしては何も出ていないし、場当たり的な対処以外、深い議論はいまだ国会でなされてはいない。

手嶋は最後にこう書いている。

だが、理念もまた外気に晒されて鍛えられなければ現実という名の獰猛な敵の前にいつしか解体されていく。
この国に暮らす人々のなかにどっしりと根をおろした理念でなければ、いかなる崇高な外交や軍事戦略もやがて立ち枯れてしまう。
湾岸の敗戦訓も誰からも顧みられぬまま風化しようとしている。

自分自身を振り返っても、湾岸戦争を契機に、自らの思想のなかで9条は急速に光を失っていった。そして今、またその再構築の必要性を感じている。そこに日本の生きる道を見出すしかないのではないかという思いが募ってくるからだ。極端に右や左に振れる議論ではなく、この国際的な安全保障の環境のなかで選択できる具体的で挑戦的で平和志向の安保政策があるのではないかという思いが強まっているのである。

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