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2007年1月26日

世界史のなかで日本史を考えること

アンドルー・ゴードン『日本の200年―徳川時代から現代まで』(みすず書房)が書店で平積みされていた。外国人の専門家が日本の歴史をどうとらえているか知るのは有益だなと思いつつ、買おうと思うほど心は動かされなかった(なにせ、高くつくので)。そしたら、図書館の新刊のコーナーにこの上下巻がすでに置いてあったので、じゃあ読んでみるかと思って借りてきた。

原書は "A Modern History of Japan"。これを "Modern Japanese History" としなかった理由を、著者はまえがきのなかで述べている。後者のタイトルでは、特殊日本的な物語が中心であり、それを近代という時代に限って綴るということでしかない。それだと世界的に進行した近代化との関連が薄れてしまう。前者は逆に、世界と関係しながら近代性が日本でどのように展開していったかを叙述することになる。つまり、後者は日本史、前者は世界史のなかの日本史となるのだろう。そう区別して、著者は前者のタイトルを選択している。

昨年から、日本史を教えたり世界史の本を読んだりしていくなかで、日本史をもっと世界史と関連づけて知ることが大事なのではないかと僕も考えるようになった。島国とはいえ、日本の政策決定は東アジアをはじめとした世界の動きに古代から影響を受けているのであり、そもそも国家としての体をなしていく過程自体が、朝鮮半島や中国の政治情勢に関係しているではないか。日本史という狭い視野、「日本人論」なるジャンルの存在、そういうものが日本人の歴史観を貧しいものにしてしまっているのではないかと、最近考えている。

これは何も日本に限ったことではないだろう。中国や朝鮮半島においても、歴史解釈をめぐってはより広い世界の動きのなかで先の大戦をとらえる努力は必要だろう。日本が主張する「列強の帝国主義のもと、日本の動きは当時としては仕方なかったのだ」という考え方は、世界史のなかで考えたら頷ける余地がある。しかし、占領されたほうはそういう見方をしてくれない。一方、遅れてきた日本の帝国主義はやはり世界史の潮流には乗っていなかっただろうし、そこでの行為のひとつひとつが否定的に見られるのは仕方のないことだ。しかし、それを日本側は認めたくない。

お互いに世界史の視野のなかで寛容になって過去をとらえない限り、未来志向というものは生まれないだろうと思う。共同で歴史を見直すにしても、それがまるでゼロサム・ゲームになってしまっては価値はないし、そういうことを目指していると、永遠に共通認識には至らないだろう。ポジティブサムを目指すべし。

以上、まえがきを読んで思ったこと(果たして、この本を読みきるだろうか……)。

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