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2006年12月27日

想像力と責任

姉歯被告に対して裁判長は、事の重大さの認識や反省の欠如を指摘し、じゃあなぜ彼がそうなのかと考えたときに、結局どういう思いでみんながそこに住んでいるのか、「そういうことに対する想像力がなかったのかと思う」と説諭のなかで述べている。

『海辺のカフカ』には、想像力と責任を結びつける話がいくつか出てくる。例えば、ナチスでホロコーストを指揮したアイヒマンの裁判に関する本(おそらく『エルサレムのアイヒマン』?)の話。

わざわざ主人公の少年がこの本を読むのは、実務家として任務を全うしただけのことだという、なんら悪びれるところのないアイヒマンの姿を通し、「想像力のないところに責任は生じない」「責任は想像力の中から始まる」ということを、著者が主張したいからだと思う。そしてこれは、登場人物たちを貫くテーマでもある。

以前このブログで引用した部分も、まだそのときは読書の半ばだったが、振り返ってみるとこのテーマに沿った想像力の欠如についてだった(このときは、狂信的なフェミニストに対して)。

その意味で、裁判長の言葉は的を得ているのかもなと思った。これは別に、姉歯さんだけの特殊な問題ではなくて、僕たちみんながそういう危険性をはらんで社会生活を送っているという警告だと思う。私の想像力は十分に豊かだ、と胸を張れる人はどれぐらいいるだろうか。

自分の胸に手を当てて、よくよく考えてみよう。僕は自分のことを考えたら、しばらく自己嫌悪に陥った。

しかし、『海辺のカフカ』の少年は、想像力ゆえに苦しくなってこの現実世界から去ろうとし、また想像力ゆえに、最後は現実を耐えて生きていこうと誓う。そうして、真に「世界でいちばんタフな15歳の少年」へ一歩を踏み出したのだと思う。

想像をたくましくしたところで、過去が消えるわけではない。しかし、そうしなければ未来への建設的な歩みもない。想像力をもって、つまり責任を感じて生きていくことで、未来のなかで、過去は新たな意味を持って蘇ってくるのではないだろうか。

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コメント

そうそう、僕が最近考えていたのは、「未来の予測能力と責任感」でした。これらはとても深い関係性があるなあと。自分の人生に対する自分の責任を感じれば、嫌でも将来を予測しながら生きないといけませんからね。逆に予測ができると準備をするので、責任感があるということになるのでしょう。一方、何かへの依存度が大きいと、責任をとる必要がないので、予想とか想像とかをする機会がありません。カルト宗教信者に無責任な人が多いのはこういうところにあるのかもしれませんね。

投稿: エスプレッソ | 2006年12月28日 17:20

コメント遅くなってごめんなさい。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしますね。

宗教はある意味で何かに依存することなんだろうけど、しかし主体者はあくまでも自分なのだということがないといけないと思います。それがないと、自分に対しても他人に対しても、想像力が乏しくなってしまうんじゃないでしょうか。

投稿: マンデリン | 2007年1月 1日 21:40

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