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2006年12月14日

柄谷行人『世界共和国へ』

この冬、異常だなと思うことがひとつある。蚊が多いこと。真っ黒の奴じゃなくて、茶色のちょっと弱そうな蚊だけど、毎晩々々、何匹叩いて殺しても、また新たな一匹が現れる。わが家だけかと思って、何か周辺に異常があるのではないかと心配していたが、調べるといろんな人がブログでこの現象について書いている。そんなので安心しても、耳元にプーンとやってくるあの不快感から抜け出すことはできないが。

昨晩、家具の凹凸のあるところに一匹とまったのを見つけた。そんなところなので、叩いても意味がない。そこでそっと指を近づけて、後ろから脚をつかむことにした。夏の蚊のようにはすばしっこくないので、この方法でもうまくいくかもしれないと思ったのだが、果たして、それはまんまと成功した。「おぉ」という家族の感嘆の声。

ああ、なんでこんなこと書いているかというと、今まさにこのブログを書こうと思った瞬間に、同じように蚊をつかみ取ったからだ。そいつは、脚を押さえられてもがいているうちに、脚1本だけ僕の指の間に残して逃げてしまった。そのか細いものを眺めていたら、なんだか嫌な気分になった。

本当は、柄谷行人のことを書こうと思っていたのだ。春先に読んだ『世界共和国へ』(岩波新書)を読み返した。最初読んだとき、今まで読んだ何冊かの柄谷の著作と比べて、ものすごく違和感を覚えたので、もう一度手にとってみたのだが、やはりしっくりこない。

副題にもある通り、資本=ネーション=国家という現代の世界を構築している三者の強力な結合を乗り越えるためには、カントが理想としたように、国家が主権を放棄して自然状態を脱する世界共和国しかない、しかしそれを座視していては遅い、カントが現実的に考えて国家連合を説いたように、われわれも国連を強化・再編成しなければならない、と主張する。そしてこう述べる。

たとえば、日本の憲法第九条における戦争放棄とは、軍事的主権を国際連合に譲渡するものです。各国でこのように主権の放棄がなされる以外に、諸国家を揚棄する方法はありません。(p. 225)

最後の数ページに至るまでの、国民国家の成立や、国家と資本の関係性などについての考察はたいへん面白いのだが、結論はなんとも陳腐な感じがする。その落差に愕然としたのは、きっと僕だけではないだろうと思う。実際、「柄谷を読んだことのある人は、この本は読むべきではない」といったことを書いている人たちもいる。

岩波的というか『世界』的な訴えが大好きな人は、きっとこれで満足なのだろう。そして、そんな人は、逆に僕なんかの反応にうんざりするんだろう。でも、甘すぎると思うんだよな。

そもそも、柄谷のいう「アソシエーション」、自由の互酬性(相互性)が実現されるアソシエーションは、絶対的に資本=ネーション=国家の環と共存できないものなのだろうか。結局、コミュニズムへの憧憬があるのかなと思う。

国家の役割、国家と国家の関係、主権の制限については、もちろん僕たちは考えていかなければならない。今の国家のありようでいいとは思わない。しかし、「私たちの進む道はここにある!」「21世紀を変える衝撃の社会構想」という岩波の帯の宣伝には、苦笑せざるをえない。そんな大袈裟なことを書くから、興醒めするのだ。少なくとも僕は、まったく衝撃を受けなかった。

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