« 小泉さんの人間性 | トップページ | アメリカで流行りの女の子の名前 »

2006年5月10日

ねじまき鳥と「本当の私」

なかなか続きを読めずにいた『ねじまき鳥クロニクル』の第3部を今晩読了した。村上春樹を読もうなんて考えたこともなかったけど、前も書いたように彼の文体を気に入ったことがきっかけとなり、この分厚い作品にのめり込んでしまった。

第3部を読みながら、僕は1、2部との断絶を感じていた。それはきわめて単純な理由であることが、最後に解題を読んでわかった。もともと前2部が出版され、その後1年ほどブランクがあって第3部が出されたのだ。彼の頭のなかには、当初第3部は計画としてなかった。だから、加納クレタは(そしてマルタも)出てこなかったのだ。第3部の構想のなかに彼女が当てはまる場所がなかったのだろう。

主人公が追究していた妻の失踪の背後にある真相は、最後にようやく明らかになる。それ自体はここまで読まされたあとにしては、あまり大それたものではない。しかし、真相を告げたあと言った彼女の言葉は身にしみるものがある。

たぶんそれは本当の私ではなかったのだと思います。そうとしか思えません。でも果たして本当にそうなのでしょうか。そんなに簡単に話は済むのでしょうか。それでは本当の私とはいったいどの私なのでしょう。今この手紙を書いているこの私を「本当の私」だと考える正当な根拠があるのでしょうか。私は自分というものをそれほど確信することができませんでしたし、今でもまだできないのです。

著者がどう考えているかはわからないが、僕自身もこのことを苦しみ悩んでいるだけに、そうだなと頷いた。どれも自分自身なんだよ、と言ってしまうのは簡単だ。そして、きっとそういう考え方でいいのだろうと思う。しかし、そう言える人は、おそらく違う自分に苛まれたことのない幸福な人であって、自分のなかに自分じゃないものの存在があることを認めたくなくても知っている人間は、そう単純に断言できない。そのうえで、苦しんでいる人にとっては、この小説に即していうと、誰か身近な人が私のどこかを「本当の私」だと信じて信じ抜いてくれることが、結果として「本当の私」へと落ち着かせてくれる力になるのではないだろうか。

|

« 小泉さんの人間性 | トップページ | アメリカで流行りの女の子の名前 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ねじまき鳥と「本当の私」:

« 小泉さんの人間性 | トップページ | アメリカで流行りの女の子の名前 »