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2006年5月22日

食のあり方を問い直す

兄の本棚には、専門書の解剖学の本や人体の図鑑など、その手のものがたくさんある。ちょっと調べものがあったのでそこからいくつか拝借してページをめくっていたら、いつもの癖で関係ないところにひき込まれてしまった。

びっくりしたのは、肝臓の大きさ。横の長さは約25センチもあるんだそうだ。体内最大の臓器である。肝臓は一大化学工場ということで、面白くて昔いっときいろいろ勉強したことがあったが、根本の肝臓の大きさを知らなかったなんて、なんとも素人だな。

化学工場とか沈黙の臓器とか再生する臓器とか、魅惑的な修飾が並ぶ肝臓。うーん、また調べたくなってきた。肝臓が悲鳴を上げたときはもう遅いですからね、皆さん。とくに暴飲暴食には気をつけて、あまり負担をかけないようにしましょう。

さて、最近読んだ新谷弘実『病気にならない生き方』(サンマーク出版)と安部司『食品の裏側』(東洋経済新報社)は、現代人の食のあり方についての痛烈な批判であり警告であり指針である。前者では欧米化した食事がいかに日本人に合わないか思い知らされるし、後者では加工食品のなかにいかに多くの添加物が使われているか、それがいかにおぞましい工程で製造されているかを知らされ、吐き気を催したくなる。それぞれ専門に深く関わってきた人たちの意見なので、彼らの訴えの基本的な部分は、自らの食生活のなかで取り入れてみようと思った(取り組み始めた内容はまたいつか書きます)。

ふたつの本を総合すると、昔ながらの慎ましい食事を基本にすることがいちばん大切な姿勢だと思う。良い素材と良い調味料を使って、ソースなども出来合いのものを使わないで、できる限り自分で料理をつくるようにしよう。実家にいるときはつくる必要がないのでいいが、マンションに来たときはまったくつくっていない。面倒くさいなあというのが先立っていたからだが、昔イギリスでは自分で三食つくっていたので、そのときのことを考えればできないことはない。そのうえで、時々焼肉を食ったりステーキを食ったりワインをたくさん飲んだり仕方なくコンビニで済ませたりすることは、体にも(とくに肝臓に)あまり悪くはないだろう。

ぜひこのふたつの本、読んでみてください。そして、肝臓だけでなく、胃や腸や、その他すべての根本に食=栄養素があることを肝に銘じて、食のあり方を問い直してみてはどうでしょうか。

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2006年5月21日

自然に接する日々

田舎にいるときは、早朝に小一時間庭の草むしりをするのが最近の楽しみである。指先を動かすのは良いことだし、土に触れるのも良いことだし、草木の匂いを嗅ぐのも良いことだし、意外と体を使うからこれまた良いことだ。もちろん雑草を取らないといけないからするのだが、それ以上に精神的な意味合いが強いようで、清々しい気持ちになってそのあとの一日を充実して過ごすことができる。

土に向かっていると、いろいろな虫に出合う。クモ、カエル、ミミズ、アリ、トカゲ。花にはハチやチョウ。あと名も知らぬ生き物たち多数。彼らの棲み処というか生きている環境を騒がせているんだなと思い、ごめんごめんと呟いている。養老先生の気分はこんなものだろうか?

Green210506_1 今日はいつもより長く草取りをしたあと、姪の運動会を見に行った。高台にあって、緑や公園に囲まれ、その向こうには山々が連なって見える。木陰で仰向けになったら、新緑の柔らかい緑色が一面に広がり、木漏れ日とあいまってとてもきれいだった。思わずそのまま撮ったのが横の一枚です。

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2006年5月20日

英語は米国の国語たるべきか?-上院での相異なる提案

Senate Votes to Set English as National Language

“英語は国語”? 揺れる米「人種差別」との批判も(読売新聞)

このニュース、CNNの News Update のポッドキャストで初めて聞いた。耳にしたとき、なんじゃそれ?と不思議に思って、記事を探したらあったので、NYTimes の記事と簡単に説明している日本語の記事へのリンクを貼っておきます。

先般アメリカで問題になっている不法移民法案の審議のなかで、上院で異なるふたつの修正条項が提案された。ひとつは共和党議員から、英語を国語(national language)とする提案。もうひとつは民主党議員から、英語を共通統一語(common and unifying language)とする案。これだけだったら対立しているんだなで終わりだが、何が不思議だったかというと、なんと両方とも上院で可決されたのだ。つまり両方に賛成した議員が少なからずいたということになる。

それだけ彼らが揺れていたのだろう。揺れる理由は、多民族国家もしくは移民国家としてのアイデンティティに深く関わり、それらを否定しかねない条項だっったからだろう。僕などは、逆に英語を国語としてしていなかったことに新鮮な驚きを覚えたのだが、僕らには感覚的に理解しづらい難しさが秘められているのだと思う。下院でどう審議が進むか、進展を見守りたい。

現実的に英語が公用語として位置づけられていることは誰もが承知しているはずなのに、それを法的に規定することへの抵抗感。なんだか自衛隊の存在を軍隊として追認することへの困惑みたいだ。どちらの問題も、体面は保ちたいという意思の表れだ。政治というものがいかに言葉の仕事であるか思い知らされる。軍隊であるといわなければ、現実がどうあれ、正式には永遠に軍隊ではないのだから。

あれ、日本国は日本語を公的に何か規定しているのか? ないですよね? これはこれで別の問題を惹起しそうだ。

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2006年5月19日

アメリカで流行りの女の子の名前

And if It's a Boy, Will It Be Lleh?

18日の NYTimes の記事から。最近アメリカでは、女の子の赤ちゃんに Nevaeh と名前をつけるのが流行っているのだそうだ。これ、Heaven の綴りを反対に並べたもの。それ以上の意味はないんだろうと思う。1999年は8人しかいなかったのが、2005年生まれでは4,457人で第70位になっている。火付け役はP.O.Dというバンドのヴォーカルのソニーという人。娘の名前が Nevaeh で、MTVにその娘と一緒に出たのがきっかけで、この名前が広く知られるようになったらしい。

西洋人の名前って、基本的にキリスト教や伝説などに基づいた決まりきった名前ばっかりで、つまんないなと思っていたが、意外とクリエイティブなというか自由な名付けもされているんですね。

イギリスにいた頃、よく名前の由来や意味を聞かれて困った。自分たちと同じように、名前がトータルとして意味があると思って相手は聞いているのだが、日本人の名前でそんなことはほとんどない、たぶん。構成している漢字に意味があるか、よくある名前にそう発音できる適当な漢字やかなを充てたか、男らしいあるいは女らしい響きの名前を漢字やかなで作り出したか、そんなところじゃないですか皆さん? 説明しろって言われて簡単に説明できる人のほうが少ないような気がする。こんなとき、信長とか家康とかいう名前の日本男児がいたら、さぞ簡単に外国人の相手を頷かせることができるだろう。歴史上の人物にちなんで、とわかりやすい説明で済むから。

さてさて、この記事の見出し、もうわかりますね。「じゃあ男の子だったら、Lleh?」。もちろん Hell の反対です。なんと発音すればいいの?

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2006年5月10日

ねじまき鳥と「本当の私」

なかなか続きを読めずにいた『ねじまき鳥クロニクル』の第3部を今晩読了した。村上春樹を読もうなんて考えたこともなかったけど、前も書いたように彼の文体を気に入ったことがきっかけとなり、この分厚い作品にのめり込んでしまった。

第3部を読みながら、僕は1、2部との断絶を感じていた。それはきわめて単純な理由であることが、最後に解題を読んでわかった。もともと前2部が出版され、その後1年ほどブランクがあって第3部が出されたのだ。彼の頭のなかには、当初第3部は計画としてなかった。だから、加納クレタは(そしてマルタも)出てこなかったのだ。第3部の構想のなかに彼女が当てはまる場所がなかったのだろう。

主人公が追究していた妻の失踪の背後にある真相は、最後にようやく明らかになる。それ自体はここまで読まされたあとにしては、あまり大それたものではない。しかし、真相を告げたあと言った彼女の言葉は身にしみるものがある。

たぶんそれは本当の私ではなかったのだと思います。そうとしか思えません。でも果たして本当にそうなのでしょうか。そんなに簡単に話は済むのでしょうか。それでは本当の私とはいったいどの私なのでしょう。今この手紙を書いているこの私を「本当の私」だと考える正当な根拠があるのでしょうか。私は自分というものをそれほど確信することができませんでしたし、今でもまだできないのです。

著者がどう考えているかはわからないが、僕自身もこのことを苦しみ悩んでいるだけに、そうだなと頷いた。どれも自分自身なんだよ、と言ってしまうのは簡単だ。そして、きっとそういう考え方でいいのだろうと思う。しかし、そう言える人は、おそらく違う自分に苛まれたことのない幸福な人であって、自分のなかに自分じゃないものの存在があることを認めたくなくても知っている人間は、そう単純に断言できない。そのうえで、苦しんでいる人にとっては、この小説に即していうと、誰か身近な人が私のどこかを「本当の私」だと信じて信じ抜いてくれることが、結果として「本当の私」へと落ち着かせてくれる力になるのではないだろうか。

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2006年5月 9日

小泉さんの人間性

小泉総理は、人前で他人の悪口を言わないそうだ。複数の人がそう言っている。世耕さんも一太さんもそういうことをブログ上で書いたことがあるし、たしか官房副長官から議員になった人(名前は失念)だったと思うが、側近として見てきた感想としてその点を強調していた。

テレビで見ていてもそういう感じなので、おそらくこの話は本当なんだろうと思う。だと仮定すると、素直に僕は、小泉さんは偉いなあと思う。人の悪口を言わないって、なかなかできることじゃないですよ。政治家らしからぬすっきりとした印象は、その性格の表れなんだろう。だから人々は、なんとなく好きになってしまうのか。

また別角度の分析なんだが、この間の「朝まで生テレビ」で宮崎哲弥氏が次のような趣旨のことを言っていた。テレビで(プロデューサーや出演者の)「個の狂気」が消えてしまった今、ひとり小泉さんは「個の狂気」を表現している、去年の解散のときが良い例だ、だからものすごいドラマ性があったのだと。そういう観点は否めないだろうけど、これがまたストレートにピュアに狂気なんだよな。屈折した感じがなくて、共感できてしまって。

政策と性格では前者が重要だろうが、指導者なので人間性も無視できまい。小泉さんが辞めたのち、きっと多くの人が、彼の姿を微笑みながら懐かしむと思う。アメリカでは、破廉恥だったけどお茶目だったクリントンがそういう存在だ。イギリスでも、ブレアが辞めたら政治の面白みがいくらかは減ってしまうだろう。

麻垣康三では、どれも魅力は劣るよなあ。麻生太郎のべらんめ口調は好きだけど……。

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2006年5月 8日

暗い部屋のなかでイギリス行きを夢見る

部屋の電灯の調子が悪く、暗闇のなかデスクランプだけ点けている。家族がこのうしろ姿を眺めたら、精神的な病にかかっているのではないかときっと心配するだろうが、イギリスではごくふつうに目にする光景で、こんな暗いなかで勉強したり仕事をしている人がたくさんいる。そもそも明るいところがあまり好きな人たちではない。蛍光灯なんか忌み嫌っている人たちも多い(そして実際、蛍光灯はとくに女性の健康にとって良くないらしい)。僕も今では、明るすぎる場所では落ち着きを感じなくなってしまった。

目標は口にしたほうが叶うという。僕は最近、3年したらロンドンでフラットを借りようと計画している。それを時々人に話し、話すことでなんだか具体化へ一歩ずつ近づいてるような錯覚をしている。3年という時限にさしたる根拠はないのだが、なんとなくその頃にはお金に余裕が出ているだろうという希望的観測である。

3年後、トニー・ブレアはもう首相を辞めているだろう。ティエリ・アンリはきっとアーセナルにはもういない。イギリスワインの評価はもっと上がっているに違いない。でも、地下鉄は相変わらずテロの標的だろうし、飯はさほどうまくなっていないだろうし、雨はやっぱりいつも降るだろう。

何を書いているのかよくわからないが、とにかく僕はあの大人の国の落ち着きが大好きなのだ。絶対に行くぞ、と暗い部屋のなかで意気軒昂な今の僕である。

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2006年5月 7日

徹底して宿題をしなかった高校時代

姪が、ゴールデンウィークの溜まった宿題に精を出している。休みの長さに比例して宿題の量が決まるのは、昔も今も変わらないようだ。

高校の頃抱いていた疑問を久しぶりに思い出した。どうして休みのときに宿題をしなければならないのだろうか? 休みというのなら、なぜ文字通り休ませてくれないのだろうか? 僕は高校時代、まったくといっていいほど宿題を提出しなかった。だから、テストの点数は良くても通知表の評価は決して誇れるものではなかった。よくそんな大胆なことができたものだと振り返っても不思議だが、その姿勢は徹底していて、職員会議で話題になったこともあったようだ。しかし、とやかく教員たちに言われた記憶もないことを考えると、きっと「あいつに何を言っても無駄だ」という雰囲気が漂っていたのだろう。

僕の考えはこうだった。学期の間の長期休暇や連休のときにたくさん宿題を課すのは、学校側の自信のなさの表れだ、縛っていないと不安なのだ。でも休みのときまでいろいろと学校に決められてはたまったもんじゃない、休みなんだから俺は勝手にやる、先生たちにやることを指示されなくても自分でちゃんと勉強しますよ。まあ今考えたら都合のいい解釈でしかないかもしれないし、実際のところそんなに勉強もしなかったのだが、当時直感的に感じていた教育のゆとりのなさへの嫌気は、あながち間違ってはいないと思う。まだゆとり教育の時代ではなかったが、教育の現状に置き換えると、休みのときに完全なゆとりを与えることをしないで、授業でへんちくりんなゆとり教育をするのは、本末転倒ではないだろうか。

卒業して10年ぐらい経った頃だろうか、当時の先生たちとゆっくりと話す機会があった。ある先生が尋ねてきた。ずっと疑問なんだけど、どうして宿題を出さなかったんだ? 自分の教科だけかと思ったら、他もそうだと聞いて、きっと何か考えがあるんだろうと思っていた。理由を教えてくれないか? 僕は先に書いたようことを、もっと高尚に演説した。教育は支配ではなく、生徒の自律をこそ目指すべきであって、長期休暇に宿題を出すのは、それに反している最大の証拠だと。これが意外と共感を呼び、それから教育論で先生たちと盛り上がった。

結論として、別の先生がポツリとこぼした。「でも、お前だからいいんであって、他の奴にもそれを認めたら教育は成り立たんぞ」。そのときは笑って確かにと頷いた。「でもそこが教師の腕の見せ所じゃないですか」と言いたかったが、それではあまりに酷過ぎるようで口にできなかった。

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2006年5月 6日

どこへも行かない、何もしない旅

ここ2,3日の移動中、林望の近著『「どこへも行かない」旅』(光文社)を読んだ。

日本人の旅行というと、テーマパークへ行ったり名勝・史跡をくまなく巡ったり、ご当地の評判のお店をはしごしたりと、寸暇を惜しんでふんだんに予定が盛り込まれている。リンボウ先生は、そんな旅を真っ向から否定する旅、イギリス仕込みの、何もしない、何も予定を立てない、ただゆっくりと、風景を愛でながら歴史を感じながら人間と触れ合いながら、何事もなく過ごす旅を推奨している。

そのうち読書録のブログを立ち上げるのでそちらでまた書こうと思うが(と年頭から何度も書いている気がするが、ずうっと決意倒れだ)、僕は最近そういう旅の仕方の面白みがわかってきたような気がしていたので、いちいち同意できる内容だった。

何も整備されていない、どちらかというと忘れ去られたような場所に、なんともいえない歴史や美しさを感じることが多い。ふだん車を走らせているだけでも、ひなびた神社の鳥居や田んぼのなかに立つ茅葺きの古いだけの家など、いつも眺めるスポットがいくつかある。著者が本書に紹介している写真も、そういう飾り気のないものばかりだ。

何度か真鶴の話が出てくる。一度だけ僕も東海道線に揺られて行ったことがあって、また来ようと思った土地だった。どこへ行くという当てもなく、ただ海の音を聞きたいという(当時の)彼女と一緒に、半島の先まで行ったのだ。波打ち際で黙って随分と時を過ごした。そのあと、すぐそこまで迫り来る森林のなかの遊歩道へも入っていった。そこの樹木のことが、この本の中で書かれているのだが、僕はおそらくこの真鶴への小旅行あたりから、そういう旅の良さを味わい始めたような気がする。今振り返ってみたら、当時の彼女は「どこへも行かない旅」「何もしない旅」というものの醍醐味を、すでに十分に知っていたのかもしれない。そう思うと、彼女に対してはなんとも申し訳ない時間の過ごし方を何度もしてしまったようだ。

あるがままの風景、人間の息づかいが聞こえるような町角、じっと歴史を想像したくなるような場所、そんなところを発見して写真に収めるような旅に、すぐにでも出発したい衝動に駆られている。

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2006年5月 5日

人間臭い都会

連休で福岡に戻ってきていた知り合いのご夫妻と食事をした。「博多はよかね」という話でひとしきり盛り上がる。九州とりわけ博多の人間は、相手がどんな人であれ、すぐにこんなことを話すのだ。僕も含めて、このサブ・ナショナリズムはなんなのだろうかと思う。

食事をして用事を済ませた後、夜の天神をぶらぶら歩いた。暑くもなく寒くもなく、歩いていても汗をかかない、一年のなかでほんのわずかな快適な季節だ。そこらじゅうにある屋台も、寒さしのぎのシートが取り外され、中の活気がそのまま伝わってくる。アーバンなビルディングとのコントラストがたまらなくいい。気取ったところで食事をしたり酒を飲んでも、この街の人たちは最終的にこういう人間臭いところに行き着くのだ。素晴らしいじゃないか。

家の近くまで来たところで、車に乗ったかわいい女の子に道を尋ねられた。近くにある「玄瑛」というラーメン屋を探しているとのこと。この間、全国ネットで紹介されていたお店だ。場所は確かではなかったが、途中、行列ができている場所があったので、きっとそこだろうと思って、行き方を教える。あとで心配になって調べたら、間違っていなかったようだ。それにしても、女の子たちがラーメン屋を探しているなんて面白いなあ。

ああ腹が減ってきた。僕もそこのラーメンを食べに行ってみよう。あと1時間しか開いてない!

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<追記>

行ってみたらもう閉まっていた。「終劇」と書かれた板が置いてあった。

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