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2006年3月 8日

自分の「思想」―淘汰されて残るもの

人の思想なんて実にいい加減なものだと、自分を振り返ってみて思う。

たとえば、昔はNews23をありがたく見ていたものだが、今は筑紫さんの意見を聞いているとイライラするので見たくない。

同じように、昔は岩波の「世界」という総合雑誌を読んでいるだけで自分が知的な感じがしたが、今はその論調に同調できないので、読もうと思わない。

僕自身、昔はユートピアな平和論を熱く語っていたものだが、今はその非現実性が僕をとことん冷めさせている。

別に、考え方が変わることを恥ずかしがることはない。清水幾太郎のように急速に右転回した思想家だっているぐらいだから。それに、生涯を理路整然と体系づけられる思想家なんて、おそらく皆無だろうと思う。ましていわんや、一般人をやである。

それにしても、僕はちょっと極端だなという気もする。まあ、いいか。右に左に、前に後ろに、いろいろブレながら方向が決まっていくのも悪くはない。その過程で捨てるものは捨てればいい。復活するものだってあるかもしれない。捨てたはずが捨て切れていなかったと驚くことだってあるかもしれない。

そうやって、淘汰された先に残るものはなんだろうか? 本当は、そういうものこそ「思想」と呼ぶべきものなのだろう。そういう意味では今のところ、幸か不幸か、日蓮を拭い去ることはできないというか、面白いと思ってしまうので、ここがやっぱり根本なんだろうと思う。 

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コメント

ほんとにマンデリンさんは日蓮が好きなんですね。もはやそれは理屈じゃない。人間と人間のあいだで「火花」が発した瞬間に、単なる思想だけではない何かが共有されるのだろう。そういう体験をすると、もはやその相手は他人とは思われなくなる。他者は自分の中に入り込み、生き続ける。それが「淘汰されて残るもの」の正体なのかもしれない。

私の場合は誰かな。たぶん、フランスの哲学者アランだと思う。アランは、あの時代のフランスを代表する哲学者でありながら、なぜか大学教授とはならなかった。ひとりの高校教師として、哲学教育に尽力した。アランの教え子たちは、フランス最高の研究者養成機関のひとつであるエコール・ノルマルでも、その外見と立ち居振る舞いだけで、すぐに見分けがついたという。

投稿: 鉄血人文主義者 | 2006年3月 8日 23:36

>鉄血さん

今晩は久しぶりに時間が取れたので、鉄血さんのTBのエントリーにコメントしてきました。

>ほんとにマンデリンさんは日蓮が好きなんですね。

うーん、どうなのかわかりません。おっしゃるように理屈を超えているのかもしれません。創価学会はますますどうでもいいと思うんですが、日蓮は捨てるに捨てられません。

といっても、日蓮のことが本当に気になりだしたのは、つい最近なんですけどね。いろんなものを捨てて、再出発しようと思ったときに、どうしても立ち返る原点というか、自分を見つめるときの軸になるのは、小さな頃から漠然とではあっても慣れ親しんできた日蓮の思想しかなかった。それも捨てて、という気にはなりませんでした。

御本仏としてではなく、人間・日蓮に魅かれますね。愛すべき人です。

アランですか。ほとんど何も知りませんので書けませんが、これを機に学んでみようと思います。

投稿: マンデリン | 2006年3月 9日 01:16

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