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2006年2月 8日

共同体の外部にいる「私」

「私」という存在は、いったいどこに立っているのだろうか? 行きつけの喫茶店で遅めの昼食を取りながら、僕はそんなことを考えていた。

なぜそんな疑問が湧いてくるのか? それは、まわりの多くの人がある宗教的共同体に所属していて、その人たちにどうしようもない壁を僕は感じるからだ。おそらくこの壁は、そこと全く関わらずに生きてきた人が、傍目から感じている違和感とは意味あいが違う。僕は以前そこに(思想的には)どっぷり浸かっていたし、今でも同じ形式の信仰をしているという意味では、片足突っ込んでいるようなものだからだ。僕は、共同体の内部にいるようで、実質的に外部にいる。ここには、かなりの精神的緊張が伴っている。

柄谷行人が言うように、共同体には「他者」がいない。そこでは、他者は執拗に排除されている。排除することで共同体が成立しているのだ。共同体内部の人間は反論するだろう、「他者はいる」と。しかし、それは自分たちの価値や世界観に理解を示す者だけだ。それは本当の他者ではない。つまり他者の「他者性」が決定的に欠けているのだ。そこにあるのは「我」=「我々」であって、独我論だけだ。「バカの壁」はあるが、「対話」はない。それが僕には耐えられない。

共同体内部にいるまわりの人間は、共同体に入ろうとしない(=活動しようとしない)僕を、いぶかしみ、かわいそうに思い、ひどいときは「わかっていない奴だ」と見下す。それが宗教というイデオロギーだといってしまえばそれまでだが、皆が皆この点に気を揉み、その観点から人間の評価をしようとするのだから、その思考パターンの一致が面白くて仕方ない。

僕にとっては、内部化するほうが無難である。しかし、一度見えるようになってしまった「外部性」、共同体の外側に広がる他の共同体との「空間、隙間」から共同体を見つめる目を持ってしまった今、それはもはや不可能だ。柄谷は言う、デカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」は、「疑いつつ、われ在り」であると。デカルトが疑ったのは彼が所属していた共同体の規則体系であり、それを疑うなかに「精神」があり、「この私」という実存があったのだ。僕は僕なりに自分の経験に照らし、このデカルトが立っていたような空間に立つしかないと思う。それがどんなに微妙であり、危ういものであろうと。

実は、こういう議論自体、この宗教的共同体では「二乗」(=頭でっかちで、本質を体得していない)だとして、何の考慮もなく否定される。自分たちを認める前提の議論なら、どんな稚拙なものでも受容するくせにだ。自分たちを認めないものはすべて無意味であり、無価値であり、悪なのだ。それで幸せな人はそれでいい。しかし、僕はそんな独善と独我論にうんざりなのだ。

食後2杯目のマンデリンを飲みながら、多少頭がくらくらしつつ、そんなことを考えていた。

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