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2006年1月29日

日本語と英語の「差異」を知ることの重要性

近々行われる公開テストへ向けて、中2の姪が英語を教えてくれというので、ここ数日付き合っている。

教えてみてびっくりしたのは、僕が中学生の頃習った英語の内容と、彼女が今習っているものとの間に、かなりの差があるということだ。今は、文法や構文を、それ自体としてはほとんど教えないらしい。基本の5文型すら知らない。

公立学校の英語教育の方針が、どのように変化してきたのか把握しているわけではないが、姪の授業の話や教科書の内容からすると、おそらく僕らのときの教え方が良くない、それでは英語を使いこなせるようにはなれないという反省があったのではないだろうか。つまり、いわゆる「受験英語」から離れた「生きた英語」を教えるべきだという流れになってきたんじゃないのかと思う。それは果たして良いことなのか?

それで良いとする側には、「ネイティブは、文法なんて考えずに自然と覚えたのだから」という意見があるだろう。日本人が日本語をいつの間にか習得しているように、言語は頭で覚えるのではなく、自然と身につけるものだという考え方。しかし、日本語の言語体系ができあがっている生徒たちに、それを求めていいものだろうか? 24時間英語漬けの生活をさせるのだったら、その方針は成果を出すかもしれないが、実際には、週に数時間習うだけで、あとはどっぷりと日本語の世界にいるのだ。自然に英語を覚えさせるなんて、できるわけがない。

文法や構文を教わらずに、断片的に表現だけを習っても、それを応用する力が備わらない。英語の「仕組み」がまるでわかっていないからだ。主語のあとには動詞が来る、他動詞だから何か目的語がないといけない、ここはこういう意味だからこの前置詞を使うんだ、といった仕組みがわかっていてはじめて、「ああ、だからこういうセンテンスになるんだ」というのが理解できる。逆にいうと、仕組みさえ把握していれば、すんなりと理解できることが多い。姪に教えていて感じるのは、文法をきちんと教わっていないことで、習っていることのひとつひとつがつながらず、体系化されていないということだ。

日本語をすでに習得している人間に、週に数時間だけの授業で英語をある程度まで使えるようにさせるためには、日本語と英語の「差異」を理解させることが、実はもっとも早道だと思う。前の記事で「英語力とは国語力だ」と書いたのは、この差異をわかる力だ。この考え方を批判する人も多いだろうが、僕は自分の経験をとおして、仕組みを教えることの重要性を強く感じている。

受験英語を離れることで、皮肉にも、英語がわからない生徒をより多くつくり出しているのではないかと危惧している。

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