2009年5月13日

器は大事

テレビを見ていていちばん吐き気を催すのは、報道特に事件において、語気を荒くして当事者を非難するコメンテーターである。
なかでも、検察や警察出身者のコメンテーター(最近多くないか?)なんてひどいもので、尊大な態度で自らは無謬とでも言わんばかりの言動にはうんざりだ(顔つきからして嫌だ)。
この検察王国においては、自分がいつ同じ目に合うかわからないのだから、そのことを常に念頭に置いて、表面的で受けのいい怒りの言葉ではなく、業ともいうべき人間性の深みに根ざした味のある言葉を発してほしいものだと思う。

草なぎ剛や小室哲哉は、また一から頑張ればいいさ。
時間かかるだろうけど、誠実に生きていれば、きっと理解し応援してくれる人たちが集まってくる。
ホリエモンも2年ぐらいは発信する気力がなかったらしいが、このところ毎日のように吠えている。
彼の罪の是非は別にして、検察批判は大いにやってほしい。
政治家はなんだかんだいって、常に国民の目に晒されてそれなりにチェックされているからいいけど、検察なんてほとんどの人は何にも知らないからねえ。
小沢一郎の一件で、ざまあ見ろ、と思っている青年将校のような検事もいるのだろうが、これでもし今回も政権交代ができないようだったら、僕は東京地検を恨むよ。
自民党がいいとか民主党がいいとかではなく、日本の政治がダメなのは、政権が変わらないから、という一点に尽きる。
大局観を持てないような正義なんて、ただの独我論で迷惑なだけだ。

さて、ちょっと前に古い食器を整理していたら、いい感じの盃と徳利が出てきた。

徳利と盃

徳利と盃

一目で気に入る。
父のお客さんだった伊万里焼の某窯元のもので、おそらく30年ぐらい前に作られたもの。
山水の絵柄がなぜか全然古くさくなくって、じっと見ていると実にいいのです。
盃がきれいに円くなく、しかもひとつひとつ微妙に形が異なっているのも趣がある。
下から見ると中の文様が透けるぐらいに薄く、そのせいか、ひとつは少し欠けてしまっていたが、4つは使えそうだった。

時を同じくして、おいしい地酒を一升瓶で2本頂いたので、このセットを使って飲んでみたのだが、そのとき僕はひとつ、はっきりとわかったことがある。
それは、器は大事だということ。
そりゃあ元々おいしい酒かもしれないけど、入れ物が違えば、気分も変わる。
気分が変われば、味も酔い方も違ってくる。
器によって、見た目のおいしさも違うし、贅沢感も出る。
なんだかんだと楽しくなるのだ。

これだと何杯でも飲めちゃいます。
というわけで、渋く日本酒を口にしている今日この頃。

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2009年5月10日

そろそろ、また書こうかな

最近何かと難しい状況に追い込まれていて、全然ブログを書きたいという気分になれなかった。
でも、この間高校時代からの友人と久しぶりに会い、彼の抱えている苦しみに寄り添ったあたりから、気の持ち方が少しずつ変化してきて、僕の心にも晴れ間が見え始めた。

人知れず心の奥底に悲しみを抱いている人間を僕は愛す。
どんなに立派な人間だと世間で言われていても、悲しみから来る人間性の深みを感じない人を、僕は好きになれないし、薄っぺらいと感じてしまう。
快活な人も、それが悲しみに裏打ちされていなければ、一緒にいて退屈だ。
最近僕は思う、悲しみを湛えて精一杯生活している人たちとともに生きていきたい、そしてそのために僕自身は強くあろうと。

畑はひと冬越えて、それらしくなってきた。
この間土を掘り起こしたときに、さらに少しだけ広げて、今はナス、トマト、ゴーヤ、キュウリ、パプリカの苗を植えている。
秋に種蒔きしたサヤエンドウがここへきて一気に伸びてきて、毎日のようにちぎっている。なのに次の日見たら、またどこかしらで生っている。
今、家庭菜園がブームらしいが、確かにこれは楽しい。

家から車で20分ぐらいの所にいいカフェがあるのを、昨日他の人のブログで知った。
モンネ・ルギ・ムックというカフェで、ここから山を越えた波佐見町という所にある。

波佐見は、有田の隣ということもあって焼き物の一大拠点だが、古い製陶所の建物をカフェとして使っているということで興味をそそられ、今日さっそく行ってみた。
結論としては、良かったです。いや、かなり気に入りました。
ありがとう、見ず知らずのブロガー様!という感じ。

まず古い建物だっていうのがいいし、中の雰囲気も良かった。
エスプレッソベースのコーヒーはボリュームがあり、好みの苦みでよかったし、チーズケーキもおいしかった。
それに、周辺も昔の建物が残っている。落ち着くなあ。

外観はこんなです。

モンネ・ルギ・ムック

座っていたイスから外のほうを撮った写真。

モンネ・ルギ・ムック

うん?、ケーキの写真は? コーヒーは?
ありません。
どうにも、それをする勇気はありませぬ。

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2009年3月 8日

『資本主義は嫌いですか』を読む

ずっと読もうと思っていた竹森俊平著『資本主義は嫌いですか―それでもマネーは世界を動かす』(日本経済新聞出版社、2008)を一気に読む。

サブプライム問題を中心に、バブルと流動性に関する分析?、というか分析の対立軸の紹介。読み通すのにある程度の知識はいるが、一般向けに分かりやすく書かれている。サブプライム危機の本質とは何なのか探りたい人には、いろんな観点からの議論がまとめられているのでお薦めです。

でもなんというか、どっちつかずで結論はない。あるとしたら、マネーが抱えるジレンマのあぶり出しだろうか。バブルはいつかバーストするという危険を孕んでいるが、バブルが起こらないと経済の成長はない、とか。読みながら、貨幣経済のシステムから逃れられない現代世界に生きる僕たちは、リスクと不確実性を重く背負いながら、うまく生きていくしかないのだ、という思いを強くした。そんなため息とともにタイトルを見返してみると、「仕方ないんだよねぇ」という著者のインプリケーションを感じる。

さて、もうとっくの昔の話のようだが、FP技能士3級の結果発表があり合格していた。2級からが本物なので、今年中に受けたいと思う。5月に受けられるかどうかは微妙だけど。

それから、ある古典の翻訳を一緒にしないか、というオファーがあり、引き受けることにした。いつ完成するやら、果たして完成するのやらわからないけど、知的作業はいくらやっても楽しいので参加することに。

田んぼに菜の花がちらほら咲き始めている。春が近づいてきた。

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2009年2月28日

畑づくりのその後

昨年秋に始めた自家菜園は、1か月ほど前から、伸びてきたネギやシュンギクを適当に切って、時々口にしている。

これは今日取ってきて食べたもの。チンゲンサイ、ネギ、ミズナ、シュンギク。土がまだまだ痩せているので、たいした出来栄えではなく、とくに風味がどれも足りない気がするが、それでも自分で育てたものは買ってきたものとは違う愛着がある。野菜さんたちに感謝して頂きました。

Veg

かなり集中して作業している昨今。そんななか先日、高校生の姪が「これ、おみやげ~」といって持ってきたのが、MaxFactorの小さなパンフふたつ。綾瀬はるかがとってもかわいかったから、きっと気に入るだろうと思って、デパートの化粧品売り場から持ってきたらしい。

こんな写真です(法的な問題があるかもしれないので小さめに)。

Haruka

この効果は抜群で、やる気が落ちてきたときにふと眺めると、また元気になりまする。

姪が「前髪が私とかぶってる」と言うので、即座に「それは似て非なるものだ」と却下したら、「げー、ひどい!」と叫んで去って行った。

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2009年2月21日

赤ん坊の頃

寒い寒いと震えているうちに、気づくともう梅の季節になった。梅には、凛としていて厳かで落ち着いた美しさがある。僕は昔から梅が好きだった。

新しくネットショップを立ち上げるべく、地元の企業の方たちと打ち合わせや検討を重ねている。僕自身が「ここだったら間違いない」と思う生産者や製造業者を厳選して交渉しているのだが、皆さん乗り気になってくれて順調に進んでいる。こだわりをもって仕事をしている人々と話をするのはとても楽しい。お茶と焼き物とお米で、まずは契約を取り付けた。

そんなこんなで、バタバタしています。作業部屋を作るべく、倉庫代わりにしていた部屋を片付けていたら、僕の赤ちゃんのときの写真が出てきた。まあ田舎だこと。

My_photo1

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2009年2月 8日

ふろふき大根、かんぽの宿&シルクロード

大根は食っても食っても、誰かしらまた持ってくる。本当に脚ぐらい太い大根ができるもので、そんなものもらってしまった日には途方に暮れる。

一向に在庫が減る気配がないので、ちまちました食べ方はやめようと、ふろふき大根を作ることにした。っていうか、無性にそれが食べたかったのです。あんまり主張すると自分が作る羽目になるのだが、今日は兄が張り切って作ってくれたので助かった。昆布だしをベースに、米を混ぜて大根を炊いていた。みそはもう少し甘辛くてもいい感じ。面取りをちゃんとしてあったら、さらに点数高かったが。でも、熱々の大根は冬にはもってこいの一品で、おいしゅうございました。

政治家の話って、なんであんなにバカバカしいのか。かんぽの宿なんて、どんなに安くったって、維持して莫大な赤字が増えるより早く売れればそれでいいじゃないの。不透明だっていうならもう1回入札やってもいいだろうけど、どのみちそんなに高くはならないと思うけどなあ。そもそも、「建設費2400億円」を持ちだしてきて落札価格が安すぎるなんて批判するのは、とってもナンセンスだと思う。建設費と比較してどうするの?

でも、あんまりネガティブな命は出さないでおこう。これ以上書くと、定額給付金のことで長々と文句を書いてしまいそうだ。一言だけ。「国民目線で」とか「庶民の気持ちがわかる」なんてよく言っている某党の人たち、そんなこと言うのは傲慢だよ。ちゃんちゃらわかっちゃいねえっつうの。

宮本輝『ひとたびはポプラに臥す1』(講談社、1997)を読む。たしか以前に3巻ぐらいまで読んだのかなあ。図書館で本棚を眺めてたら、また読みたくなった。

僕の友人はこの本を評価しないし、その理由もわかるんだけど、あえて「今(といっても10年以上前)のシルクロード」という視点に立って、変にロマンティシズムに陥ることなく、感じたものを書こうという姿勢で書いてあるのだと思う。

この本を読んで、シルクロードを旅したいと思うようになる人はいないだろう。でも、現実のシルクロードはそんなものなのだ。行く先々で、社会主義国家の役人の堕落ぶりに怒りを感じ、人々の生気のなさに虚しさを覚え、食べ物がまずくて下痢に悩ませられる。そんななかで、鳩摩羅什も永遠もあったもんじゃない、というのが正直な気持ちだろう。でも、折々に手紙の形式で綴られている文章のなかに、その猥雑な現実を離れて、彼の感じたものの上澄みの部分が表現されているのではないだろうか。手紙って、宮本文学ではいつも大事なのだ。

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2009年2月 6日

フクヤマ続きですが

昨年後半から、週一ぐらいの割合で近くの温泉へ行く。今まで、温泉街にいながら温泉には滅多に入らないというもったないことをしていたが、最近はここの温泉のなかでも泉質の評価がとても高い旅館の風呂に、兄と一緒に行くようになった。芋の子を洗うような多い時は避けたいので、旅館から情報をもらって、泊まり客が少ない時にふらりと何も持たずに出掛ける。

だだっ広い風呂にのんびりと浸かるのは気持ちいい。いろんな嫌なことを忘れて、一気に気持ちを切り替えることができる不思議な空間だ。それに、肌がツルツルになる。そりゃあ女性には人気あるわな。

『歴史の終わり』の続きで、フランシス・フクヤマの『アメリカの終わり』(講談社、2006)を読んだ。ネオコンとは伝統的にどういう主張をしてきたのか、イラク戦争でネオコンたちは何を誤ったのか、これからのアメリカの外交政策はどうあるべきかを考察している。

フクヤマがまずもって強調したかったのは、イラク戦争によってネオコン思想は完全に歪曲されてしまい、もはや本来の意味に戻すのが不可能であるということだ。なぜネオコンと目されていた彼がブッシュの戦争方針に反対したのかも、彼が指摘するネオコンの伝統に沿って考えれば、自ずと理解できる。言ってみれば、ブッシュ政権によってネオコン思想はズタズタにされてしまったのだ。

彼が今後の米外交の方向性として主張する「現実主義的ウィルソン主義」は、リアリストとリベラリストとネオコンとの寄せ集めのような考えだが、ブッシュ政権のような異常に偏った政策の取り方(予防戦争、敵か味方かの二元論、国際法や国際機関の軽蔑や都合のいい解釈、など)を除けば、概ねアメリカの政策は今までも、そしてこれからも、彼の主張から大きく外れるものではないだろうと思う。重要な点は、国連というひとつの世界規模の機構だけにすべてを任せるのは無理で、多数の国際機関やそれに準ずる組織が、問題を分担して管理解決していく、それらの連帯のなかで世界政治を運営していくという「重層的な多国間主義」を掲げていることだろう。これは、アメリカの理想と国益がもっとも合致して力を発揮したのが第二次世界大戦直後、様々な国際機関の創設や国際協調をアメリカ主導で成し遂げた時である、という著者の確信からきている。この見解については、かなり意見が分かれるだろうと思うが……。

ネオコンについて簡潔に歴史と思想的背景が書かれているので、そういう点ではお薦めできる本だ。また、アメリカの「善意による覇権」という考えとイラク戦争との関係についても把握することができる。

昨日から、サミュエル・ハンチントンの The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order を読み返している。字がちっちゃくて、なかなか進まないけど、こういうパラダイムシフトになったような本は、読んでいて引き込まれる。この本も批判が多いが、パラダイムやフレームワークを提供する目的で書かれた論考の細かい部分を批判するのはナンセンスだといつも思う。だって、周辺を捨てるリスクを取って、核となる部分を主張しているのだから。

源氏物語も岩波文庫の1巻目がようやく終了して、「須磨」に入ったところ。「そうだった、源氏はイケない関係(朧月夜との)がばれてしまって、いっとき都から逃げるんだった」と思いだした。寝る前に読みながら、いつもすぐに沈没している。

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2009年1月27日

なんとやっと今年初めてのエントリ

年が明けてもうひと月経とうとしている。

どうして何も書かなかったというと、こういう匿名のブログに嫌気がさしてきて、どうせならちゃんとしたサイトを作ろうかなと思ったりしていたから。しかし、実際的にそんなことにせっせと時間を費やすわけにもいかず、また公けの立場でもあるまいし、わざわざ実名で発信する意義はないだろうと悩んでみたり。でも、自分メディアはちゃんと持ちたいし、そのためには責任が生じる方向へ自ら追い込む必要はあると思う。まっ、そのうちに。今は、大したことも発信していないので、どのみち意味がない。

そういえば最近、知り合いが某経済誌のオンライン版で政治関係の連載を持っているのを発見した。去年の夏からやっているようだ。大学でも職を得たらしく、わがことのようにウキウキした。

連載の内容はというと、かなり大上段に構えた物言いで、そこまで断言できるバックグラウンドがあるのだろうかと、勝手な心配をしてしまった。危うい橋を渡っている気がしないでもないが、それこそ責任もって書いているだろうから、これから参考にさせてもらおうと思う。フィードの購読にさっそく登録した。

さて、年末に読み始めたフランシス・フクヤマの The End of History and the Last Man を今月半ばに読了。日本語版も読んだが、こうしたややこしい議論をしている本にありがちで、日本語より英語の原書のほうが断然スッキリと頭に入ってくる。

10年以上の時を経てあらためて読み返したが、じっくり内容を追っていくと、別に納得できないところはない。この人も誤解されているなと感じる。単純な図式で、冷戦が終わり西側の民主主義が勝利した=歴史の終わりだ、と叫んでいるのではないし、これから先のことを断言しているわけでもない。そこには、ヘーゲルを軸に、プラトンからホッブスやロック、カントを経てニーチェにいたる西洋の Natural Man (自然人)や Universal History (普遍的歴史)に関する深い哲学的考察があるのであって、そこから紡ぎだされる「人間とは何か、何を求めているのか」という姿のほうが、重要なのだと思う。人間は根本的に「認知」への欲求があるのであり、それを求めることで、歴史が進み、社会が変化してきた、という主張には、大きな間違いはないはずだ。

それに、歴史の終わりに登場する自己の利益のみを追求する人間たちへの懸念は、今の supercapitalism に通ずるものがある。そこから反動で歴史があと戻りすることのないように、社会のかじ取りをどうしていけばいいのか、という難しい問題が私たちに突きつけられているということを、フクヤマ氏は言いたいのだろうと思う。

ところが、著者が何度か念を押しているところから推測するに、「歴史の終わり」を文字通り時系列な歴史が終わる、と大きな勘違いをしている批判者もいるのだろう。それではまるで話のレベルが違うのであって、最初からまったくかみ合うはずもない。

この本を手始めに、今年はせめて10冊ぐらいは英書を読もうと思う。なるだけ深みのある本を。

話は変わるが、日曜日にFP技能士3級の試験を受けた。3級から受けるしかないので受けたが、完全になめていたら、過去問をやってみると、基本的だけどいやらしく細かい知識を問う問題が多かったので、これはまずいと思って、さすがに先週は勉強した。金融商品から、税や不動産、相続まで、浅く広く勉強する必要があった。

試験後に発表された解答をみると、学科は8割正答で、実技(個人資産相談業務)は1問しか間違っていなかったので、マークシートの読み取り違いといったあり得ないことが起こらない限り合格だろう(6割正答で合格)。正直言って、学科の問題をやりながら、「げー、俺こんなの知らないよ」という箇所がいくつもあったが、常識に立ち返ることを基本にして、今までの経験を振り返ってみたり、勉強したことから派生して考えたりした解答の多くが正解であったことは、かなり嬉しかったし驚いた。

次に2級を取って、同時並行で民間のAFPのための単位も取得して、AFPの認定も受けるのが今年の目標。それが今の僕にとってどれだけ意味があるかはわからないが、とりあえず取っておけるものは取っておこうと。本当は、業務独占の資格を取ったほうが稼げるのだろうが、興味のないことをお金のためと割り切って勉強したいとは思わない。ただ、この世の中を生き抜くためにいろんな知識は必要であり、知らないがゆえに損している苦しんでいる人が多いので、そういう人たちを救っていくには、実務的な知のネットワークを作ってアドバイスすることは重要だろうと感じている。弁護士になっておけばよかったなと思うこともあるが、ビジネスのほうが苦しくても面白いので、僕自身は最終的に中小企業診断士が取れればいいかな。これも難しいわりには資格なくてもできる仕事だけどね。あっ、でも年取ったら大学院に入りなおして、学位を取りたいなあ。それこそ大いなる無駄だけど、人間は無駄なこともたくさんやらないと、深みのないつまらない人間で終わってしまう。タモリ倶楽部のような無駄はとっても大事なのです。

いろいろ書きたいことはあるが、夜遅くなったのでこのへんで。

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2008年12月31日

今年最後にひとことだけ

すでにお節の食材を食いつくした感のある大晦日。

12月後半はキツキツだったので、今日こんなにゆっくりできているのが不思議な感じがする。

この一年を振り返ると、とても感慨深い。ここにはほとんど書かなかったが、とくに上半期はとても精神的に辛い日々だった。その苦闘のなかで、どんなときも晴々として揺るがない強い魂を掴みかけるところまで来たような気がする。あくまでもその入口に立っただけだが。陰に陽に手を差し伸べてくれた方々の顔が浮かび、今日は感謝の気持ちでいっぱいだ。

来年は人生の大きな飛躍の年になるような予感がする。どんなことがあっても、どんな事態になっても、不動の人間になろう。「天晴れぬれば地明らかなり」。心を鍛えるのみ。あとは自ずと付いてくる。

みなさま良いお年を。

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2008年12月21日

ブッシュの時代について来年は考えたい

おいしいものを食べ、温泉に浸かり、楽しい時間もあった週末。しかし、個人的な楽しみなどどうでもいいとも思える週末。

ブッシュ政権が終わるのを機に、8年間のブッシュの時代とは一体なんだったのか、来年は考えたいと思う。インサイダーによるドキュメンタリー的な物語は、それはそれで興味はあるが、もっと大きな視点でこの時代を自分なりに考えてみたい。

そういうことを思い描いていたら、なんとなく、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』に立ち返ってみたいと思った。この本に批判が多いのは百も承知で。読み始めてしばらくしたら、原書 The End of History and the Last Man を持っていることを思い出したので、本棚から引っ張り出してきて、両方読んでいる。

それから、なかなか進んでいなかったグリーンスパンの The Age of Turbulence を、今日は60ページほど読んで11章まで終わった。時系列に綴った回顧録の部分はこれで終わりで、あとは経済の理論や実態に対する見解となる。ちなみに、11章でのブッシュ政権に対する語り口は厳しい。ブッシュ・シニアの時代についてもあまりよくは書いていない。その間のクリントン時代が明るい時代として描かれているのとは落差が大きい。

散々非難してきた日本のゼロ金利政策と同じ道を、今アメリカはたどり始めた。9・11で明けたブッシュの時代は、戦争に明け暮れ、最後はアメリカ発の世界的で大規模な金融・経済の混乱とともに黄昏を迎えている。その日暮れがまったく美しくないことは、あのイラク人記者の靴投げが如実に物語っている。今、賞賛すべきものがあるとしたら、大統領の反射神経の良さしかない。

さて、今の派遣社員の首切り問題を見ていると、まさに企業の考え方が supercapitalism だなと思う。大企業は莫大な内部留保やキャッシュがあるのに、一方で解雇をどんどん進めるのである。政府の雇用対策が功を奏すれば、まだまだ日本の資本主義と民主主義のバランスは健全といえるだろうが、企業側はきっと「努力します」で終わりなんだろうと思う。

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2008年12月17日

あるがままそこに

今朝は一面霜が降りていて、田んぼや地面が薄化粧していた。空も霞んでいる。

ウォーキングの途中で、川まで下りてみた。田舎の淋しい風景がとても美しく見えて、しばし立ちつくした。僕は全体の一部であり、また全体は僕の中にあり。携帯にて。

Winter_morning

先週末、宇宙飛行士の毛利衛さんの講演を聴きに行った。宇宙へ出て、地球は「まほろば」であると思った、と述べられていた。英語に訳しにくいので、NASAでもそのまま "mahoroba" という単語で、みんなに語っていたという。この音の響きの良さは、日本語を母語とする僕たちにしか掴めない微妙なものだと思う。

「神を感じたか」という問いに対し、そうは思わなかったと。「宇宙はあるがままそこに存在しているんだと感じた」という毛利さんの答えは、率直な感想なのだろうが、とてつもなく哲学的深みがある。今週は時折、その言葉を思い出しながら、宇宙の闇に浮かぶ地球を脳裏に描いている。

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2008年12月12日

朝ぼらけに歩く

いまごろの九州の朝は、夜が明けるのがひときわ遅い。朝ぼらけのひんやりとして澄んだ空気のもとウォーキングをするのは、すこぶる気持ちのいいものだ。ここ数日は深く霧が立ち込めている。ほんの何十メートルか先もはっきりしないなか歩いていると、どこか異次元へ吸い込まれていくような妙な気分になる。

朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木 (百人一首、64番)

古来、宇治川の冬といえば、川霧と琵琶湖から下ってくる氷魚(アユの稚魚)を捕獲する網代木が有名だったらしい。道長も眺めていたのであろうか。源氏物語の世界が広がる宇治は、一度ゆっくり訪れてみたい。

今週中に終わらせたいことがあったのだが、昨晩山を越えて、今日は少しスローダウンして作業をしている。疲れて重かった体が、今日は急に軽くなった気がする。そんななか、今週の楽しみといえば、たくさん届いたエビスビールを毎晩1缶ずつ飲むぐらいだった。珍しく何日も続けてお酒を飲んだ。

食材はあいかわらずいろんなところから頂く。最近は大根が多い。雲仙のじゃがいもが1箱届き、鮭も1匹送られてきたので、石狩鍋をした。冬はやっぱり鍋ものがいい。ねぎなども大量にあったので、鶏肉で水炊きもした。今日は解体したばかりの牛肉を1キロもらったので、余っていたじゃがいも(じゃがバターもしたがまだ余った)で肉じゃが。にんじんはじゃがいもより小さめの乱切りにしてよね、とうるさいことを言っていたら、自分が食材を切る羽目になってしまった。トホホ。

とはいっても、あんまりグツグツ煮たやつばかり食べていると、ビタミン類が壊れたりして、あまり体には良くない。最終的には、朝食べる生の果物と野菜がいちばんおいしいし、健康的だ。そして、起きてすぐ飲む水。これらにバゲットがあれば、もうそれで十分に幸せな気分になる。

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2008年12月 8日

人生はこれから

土曜日、北九州でB型肝炎に関する講座を聴きに行った。C型ばかりが注目されているが、潜在的にB型も150万人ぐらいいるといわれ、実際、身近にもキャリアがいるので、最近気になっている。

会場の大きさのわりに参加者が少なく、ちょっと寂しい感じ。勉強にはなったけど。

終了後、小倉駅の南側に広がるアーケード街を散策。博多とはまるで違う街の雰囲気。労働者の街だったんだなというのが伝わってくる。

夕方、小倉城を見に行く。中に入る時間がなかったので、写真だけ撮った。

Kokura_castle1

Kokura_castle2

というのも、小倉城へ来たのは、すぐ横の「松本清張記念館」へ行きたかったから。閉館まで50分しかなかったのでじっくりと見られなかったが、展示内容は充実していて、価値ある500円だった。

作家の直筆にはいつも興味をそそられるのだが、松本清張の字は作家らしからぬ美しいものだ。知らなかったが、遅咲きの42歳でデビューをして、それから40年作家として活動した。それ考えたら、人生これからですばい。

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2008年12月 4日

今いのちに満ち溢れて

Supercapitalism を読了。本文は200頁ちょっとと薄かったので、ゴールはそう遠くなかった。

Supercapitalism

データや具体例に誤りが多い、という批判もあるが、現代の政治経済構造の本質に迫る議論は十分に読みごたえがある。

要は、「消費者」や「投資家」、そしてそれに応答すべく奔走する「企業」に重心が傾いていて、超資本主義と堕している現代の政治経済を改善すべく、「市民」の意識を高めて、資本主義と民主主義のバランスを取り戻そうという話。かといって、別に左がかった主張でもない。

著者が指摘するように、実は一人ひとりのなかにたとえば、より安くより良い商品やサービスを求める消費者のマインドと、公平さと公正さを求める市民のマインドが同居している。そうして、みんな胸に手を当てて考えてみたらいいが、大抵の場合、前者の気持ちが勝ってしまう。その高まる一方の欲求が、企業を世界規模で際限のない競争に駆り立てている。今の不公平な世を嘆いたとしても、それは自分自身が招いたものともいえるのだ。

卑近な例でいうと、地元の商店街が寂れていくのを嘆きながら、週末には平然と遠くのショッピングモールに車で買い物に行ったりする。矛盾しているなあと感じることは多々あるし、そんなときはちょっと罪悪感を感じたりするが、行動パターンは変わらない。消費者としてはごく当然のことをしているからである。つまり、それだけ市民の側のモチベーションを自分のなかで高く維持するのは難しい。

著者は最終的に、企業献金や法人に対する税制のあり方など政策面での話をしつつ、一人ひとりの心にも厳然と存在する超資本主義を乗り越えよう、と静かに訴えている。

平易な英語で書かれているので、興味のある方はぜひご一読を。

さて、昨晩は不思議な感覚に包まれて、突然、『草の葉』を読みたいと思った。そして、次の詩を読んだとき、僕はホイットマンに導かれたような気がした。

「今いのちに満ち溢れて」

今いのちに満ち溢れて、引き締まった現身(うつしみ)の姿でいる、
合州国紀元八三年に生きる四〇歳のぼく、
今より一世紀のち、あるいは幾世紀かを経たのちの世の人に、
まだ生れこぬ君に、君の姿を探し求めつつこれらの歌を。


君がこれらの歌を読むときかつて現身だったぼくはすでに見えぬ姿となり果てている、
こんどは君だ、引き締まった現身で、ぼくの姿を探し求め、僕の詩を成就するのは、
もしもぼくが君といっしょで君の僚友になることができたらどんなに幸福かと思うだろうが、
構わずぼくもいっしょだということにすればいい。(信じすぎてもらっても困るが、今ぼくは君といっしょだ)


『草の葉・上』(岩波文庫、pp. 335-6)

布団のなかで、僕は詩の魂ともいうべきものによって震えていた。そうだ、ホイットマンの力強く快活で人間味あふれる精神を体現するのだ、「ぼくの詩を成就」するのだ。

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2008年11月30日

昔から中性的

知り合いのおばさんが、新しく使っているという化粧品をいくつか取り出して、「ちょっと、このベースの伸びを見てよ」と、おもむろに僕の右手の甲にピンクのメークアップベースを伸ばした。

「ほら、今までのと違うでしょう?」って聞いてくる。「そんなこと言われたって、僕使ったことないんだからわかんないですよ」と言うと、もう何よ面白くないわね、という顔をする。アホか、俺が化粧してるとでも思っていたのか。

でもお構いなしに、今度はファンデーションをその上から塗り、「ほら、こんなに美しいでしょう?」と。確かに。

男もスキンケアをちゃんとする時代だし、僕自身も、洗顔して化粧水や乳液をちゃんとつけるので、美しくありたいという願望はあるけれど、化粧をしたいとまでは思わない。そもそも面倒だよ。

そういえば思い出した。大学生のときに、「化粧してみてよ」とそそのかされ、女友だち4人がかりでメークをしてくれたことがある。「うわあ、とってもきれい」とけっこうその場は盛り上がった。

同級生のふたつ上のお姉さんが、なぜか僕に口紅をくれたこともあった。それも自分の使いかけを。とっても美しい人だったのでドキドキしたが、その行為の意味はまったくの謎で、取り次いだ同級生も怪訝な顔をしていた。

昔から中性的?な雰囲気があるのだろう。でももうオッサンの領域ですからね、さすがにそんな感じではないだろうと思う。

夕方、ウォーキングをしていたら、向こうの空がたそがれてきれいだったので、携帯で撮影。

Twilight

黄色と青と黒のコントラストが気に入った。遠くに小さく月が出ている。なんだか絵本のような世界。

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